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社会学者に聞く世襲のメカニズム〜私たちはなぜ、あれほど「歴史的世襲」を祝福したのか?〜
今も身の回りで行われるさまざまな「世襲」を、私たちは当たり前に受け入れています。一方で、自由と平等をタテマエとする現代社会で、地位や権力の世襲がやっかみの元になるのも事実。古くさくも、不公平な慣習にもみえます。
そこで、現代の世襲が社会の中でどのように機能し、なぜ時には肯定的な態度で受け入れられるのか? 明治学院大学社会学部教授の石原俊先生に世襲のメカニズムを聞きました。
前近代の世襲と現代の世襲
-歴史的には、なぜ世襲が行われてきたのでしょうか?
前近代は、厳しい身分制度によって、地位や権力が子孫に受け継がれてきました。日本でも前近代の武士(士分)や貴族(公家)、近代に入っても戦前の華族や現在の皇族は、身分を世襲するのが当たり前です。
一部の例外を除けば、世襲のシステムに疑問をいだく人は、ほとんどいなかったと考えられます。身分制度を当たり前に受け入れていましたし、権力と結びついた宗教の力も大きかったでしょう。
-前近代と現代では、世襲のメカニズムも違うということでしょうか?
私たちの社会で主に機能しているのは、近代以降に新たに構築された世襲です。「地盤」を引き継ぐことで、実質的な世襲が行われる政治家は、その典型と考えて良いでしょう。
直近10人の総理大臣のうち、安倍首相をはじめ7人は父親が国会議員をつとめています。大臣でなくても、国会議員の世襲はたびたび議論になる問題です。
しかし、彼らは前近代の身分制度に則って、政治家になったわけではありません。民主的な選挙制度の中で議席が世襲されています。
現代の世襲とは?
私は、現代社会学の大家であるピエール・ブルデュにならって、現代の世襲は「経済資本、文化資本、社会関係資本の継承」ととらえられると考えています。
経済資本とは
「経済資本」は親から子に受け継がれる財産です。金銭的な余裕があれば、子どもは充実した教育を受けられ、競争を有利に勝ち抜くことができます。政治家、経営者、場合によっては医師や学者など、親が継がせたい地位や職業のための訓練や資質を、ある程度お金の力で身につけられるのです。
文化資本とは
「文化資本」は、言葉遣いや振る舞い方、知識や学歴などをいいます。学校教育で得られるものもありますが、多くは正規の教育の外側で身につけられます。
「親の背中を見て育つ」
という言葉があります。政治家の家に生まれた子は、親や周囲の人と暮らすことで、政治家とはどんな職業かを理解します。もちろん、企業の経営者にも同じことが言えるでしょう。
後継者としてのマインドが芽生え、「○○にふさわしい」とされる考え方や物の言い方、立ち居振る舞いを自然と身につけていきます。
社会関係資本とは
「社会関係資本」は、人との信頼関係や結びつき、ひとことでいえば「人脈」を現す概念です。親である政治家や経営者が「優れた」人物だとされるほど、彼と関係の深いスタッフや支援者が後継者も積極的に支えるでしょう。ドラマや小説にはしばしばこんな台詞が登場します。
世襲の後継者はスタートの時点で、単なる経済力以上のアドバンテージを持っていることになります。量的にも質的にも、通常はありえないリソースがつぎ込まれ、地位にふさわしい「ウツワ」を身につけていくのです。
逆転できない社会
-世襲は現代社会でも大きな役割を果たしているのですね。一方で、世襲できる境遇にない人には、厳しい現実です。
福沢諭吉は「学問のすすめ」に「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と記しました。万民が同じスタートラインに立ち、学問を修めた者がより高い地位や権力を手にする、と説きます。
「皆が同じルールで競争し、頑張った者が報われる」という啓蒙思想は、近代啓蒙主義の根幹となる理念で、社会学では「メリトクラシー」と呼ばれます。
しかし前述のとおり、私たちの社会では、競争に勝つ能力を身につける手前のスタートラインで、著しい不平等があります。近代啓蒙主義の理念はタテマエに過ぎません。
-福沢のいう「天は人の上に人を造らず」が実現された社会は、過去にあったのでしょうか?
歴史をみても本当の意味で平等な社会がつくられたことはない、と言って良いでしょう。
ただ、日本にも、敗戦後の一時期、それなりに近代の理念に近い社会を作るチャンスはありました。財閥、地主制、イエ制度、華族制度が法律の上では解体され、女性が参政権を獲得し、戦前の反省もあって社会は大きく平準化へ向かいました。
近代以後の日本で、社会がもっとも平準化したのは、1950〜60年代と言われています(学説によっては、戦時期の1940年代から平準化が始まったという見解もあります)。文化資本と社会関係資本が、戦前期や今ほどには、アドバンテージを生まなかった時代です。この時代、経済力のない家に生まれても、難関大学を出て高級官僚や医師になるような人が、少なからず出ました。
しかし、1970〜80年代になると、大学の授業料の高騰や受験戦争の過熱もあって、経済力のある親は子どもを塾へ通わせたり、家庭教師をつけるようになります。高度成長期も終わりごろになると、ふたたび「逆転できない社会」へ変わっていきました。
経済的に成功した人に経済資本、文化資本、社会関係資本が集中し、格差が広がっていきます。そんなプロセスの中で、21世紀に入ると、タテマエとしての平等さえも信じない人々が増えていったことが、各種調査でも明らかになっています。
2000年代には「勝ち組」「負け組」というキーワードが流行しました。格差が拡大し、逆転できない社会の現実を、日本の何割かの人々が受け入れてしまった証左でしょう。
不平等を諦めている
-格差が広がれば、世襲に対する不満が大きくなるのが自然ではないでしょうか。今も多くの世襲が行われているのはなぜですか?
私的な営利企業と公的な地位を分けて考える必要はありますが、政治家の世襲傾向が強くなっているのは、有権者の「逆転できないことへの諦め」の産物でもあると、私は考えています。
象徴的な出来事が、先日行われた歴史的な世襲「皇位継承」です。究極の文化資本と社会関係資本を持つ、というより前近代的な身分制度に立脚する天皇家の世襲を、人々は大いに祝福しました。現在の政治や経済の状況に不満を強くもっている人々も、例外ではありませんでした。政治・経済を超えた存在であるはずの天皇家に、現実的な政治・経済の機能不全を埋めてもらいたい、と人々は願ってさえいるのではないでしょうか。
この大きな矛盾の中に、政治・経済システムの公正さに対する「諦め」を感じざるを得ないのです。
編集部まとめ
世襲が行き過ぎると、資本を持たない人が逆転不可能な状態となり、社会的な流動性が失われます。結果として、さまざまなところで人々の活力が低下するリスクがあります。
一方で文化資本、社会関係資本の継承により人材が育つことは、社会全体のメリットでもあります。小さいときから育まれる「ウツワ」は何者にも代え難く、世襲をまったく否定すれば、それはそれで窮屈な社会になるでしょう。
「フランス人権宣言で高らかにうたわれた自由・平等という近代の根源的な理念を基準にするなら、多くの人が格差を当然のものとして受け入れてしまった社会が、成熟に向かっているとは言えません」と石原先生はいいます。今、私たちの価値観を見直し、タテマエではない理念を構築するときなのかもしれません。そのための視点として、さまざまな「世襲」は良い切り口になります。
プロフィール
石原俊先生
明治学院大学社会学部教授。1974年、京都市生まれ。京都大学大学院文学研究科(社会学専修)博士後期課程修了。博士(文学)。千葉大学助教、明治学院大学准教授、カリフォルニア大学ロサンゼルス校客員研究員などを経て現職。専門は、社会学・歴史社会学。著書に『近代日本と小笠原諸島―移動民の島々と帝国』(平凡社、第7回日本社会学会奨励賞受賞)、『殺すこと/殺されることへの感度―2009年からみる日本社会にゆくえ』(東信堂、2010年)、『〈群島〉の歴史社会学―小笠原諸島・硫黄島、日本・アメリカ、そして太平洋世界』(弘文堂、2013年)、『群島と大学―冷戦ガラパゴスを超えて』(共和国、2017年)など。近著に『硫黄島―国策に翻弄された130年』(中公新書、2019年)がある。
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