古都・鎌倉の成り立ちをめぐる「地理と歴史の散歩」へ出かけよう!
かつて中世の武家政治の中心地として栄えた鎌倉は、近年の発掘調査で往時の姿が徐々に解明されている。地理と歴史の散策へ出かけ、街づくりの工夫に思いを馳せてみよう!
上空から鎌倉を俯瞰(ふかん)する
まずは、鎌倉の全貌を把握する。こちらは「山川 詳説日本史図録」に掲載されているイラストで、南東上空から見おろすように鎌倉の市街地が描かれている。
鶴岡八幡宮を頂点とした二等辺三角形のような街の形。鶴岡八幡宮から由比ヶ浜海岸までは直線距離で2km弱と、滑川が流れるコンパクトな平地を東・北・西の三方から山々が取り囲む。山稜部を開削した7ヶ所の「切通し」は、鎌倉の出入り口である。外部からさまざまな人や物が出入りし、都市として発展してきた(詳しくは「源頼朝は、なぜ鎌倉に幕府を開いたのか?」へ)。
地理と歴史の散歩ポイント①「和賀江嶋」
海からも、鎌倉にはたくさんの人や物が入り込み商業もさかんだった。しかし、このあたりの浜は遠浅で入船が難しく、難破する船も多かった。そこで、執権・北条泰時の時代につくられた港湾施設が「和賀江嶋」(詳しくは「源頼朝は、なぜ鎌倉に幕府を開いたのか?」へ)。材木座の地名も残る。
江戸時代まで港として利用されたが、いまでは干潮時に瓦礫のような石積みの跡が姿を現すのみ。和賀江嶋から西には由比ヶ浜が弧を描き、天気が良ければ富士山も見渡せる。
地理と歴史の散歩ポイント②「一の鳥居」
由比ヶ浜から500mほど北に、鶴岡八幡宮の「一の鳥居」が立つ。海岸からの道はなだらかな斜面を上り、鳥居を頂点に下っていく。和賀江嶋をつくったことで、潮の流れが変わってできた砂丘の名残だという。
このあたりは、かつて「浜地」と呼ばれ、鎌倉時代には一般庶民の居住地だった。浜地には刑場や墓地もあり、一の鳥居から100mほどの海岸よりから1,000個近い頭蓋骨が出土した。鎌倉幕府滅亡時の戦死者と思われる。教科書に載るような、歴史の表舞台とは違った世界が広がっていたのだ。
地理と歴史の散歩ポイント③「若宮大路」
一の鳥居の下、鶴岡八幡宮へとまっすぐ伸びるのは「若宮大路」。今も昔も、鎌倉の街づくりの中軸だ。
浜地の奥には、商人や手工業者が住んでいたことが発掘調査でわかっている。さらに若宮大路を山側に進むと武家屋敷のエリア。下の写真は、2016年の発掘調査でみつかった中世の遺跡だ。
点線の右側は倉庫に使われたとみられる竪穴建物の跡、左側は寺院や武家屋敷にみられる礎石建物(石の基礎で柱を支える)の跡だという。商業エリアと武家屋敷エリアの境界線が、この写真に収められているというわけだ。
場所は現在の鎌倉駅のすぐ近くの二の鳥居で、鶴岡八幡宮まで1kmほど。三の鳥居まで道路から一段高い段葛が500mほど残る。目を閉じれば、さまざまな人が生活し、往来する若宮大路の様子が浮かんでこないだろうか?
地理と歴史の散歩ポイント④「谷戸(やと)と地業(じぎょう)」
鎌倉を歩くと、住宅地の背後に迫る低い山をたびたびみかける。山稜が市街地までせり出し、山稜を回り込むように寺院や住宅が谷筋に建てられているのだ。Googleマップで鎌倉の航空写真を見てみよう。
山の奥深くまで谷が入り込んでいることがよくわかる。この複雑な街の輪郭こそ、歴史と地理散歩の醍醐味「谷戸」の地形だ。谷戸の奥深くには寺院や武家屋敷がつくられていた。
谷戸が幾筋も伸びる鎌倉の山の手には、人工的な断崖がよく見られる。中世鎌倉の人口は、最盛期で数万人にのぼり、狭い土地を効率よく活用する工夫が必要だったと考えられる。
そのために行われたのが「地業」。屋敷地を作ったり建物を建て替える際に行われた整地のことで、山裾を削っては平地をつくり、削り出した石で地面がつくられた。鎌倉の街を発掘調査すると、断面は何層もの縞模様にみえるという(地業面)。
街の断面をみることは難しいが、代わりにおすすめするスポットが鎌倉歴史文化交流館。
鎌倉歴史文化交流館の庭から。中央の3つの穴は大正期につくられたものといわれる。
鎌倉歴史文化交流館の背後にそびえる断崖は、中世以降に山を削りとった痕跡である。武家屋敷もしくは寺院跡であった広い敷地は、かつての山を削り出して整えられた平地だ。
谷戸の地形と地業の痕跡、さらに館内の写真パネル、プロジェクションマッピングなどの展示によって、鎌倉の地理・歴史を一層リアルに感じられる。
鎌倉歴史文化交流館
住所/〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目5−1
電話/0467-73-8501
開館時間/10:00-16:00(入館は15:30まで)
休館日/日曜・祝日、年末年始、展示替え期間など
観覧料/一般300円[210円]、小・中学生100円[70円]
※[ ]内は20名以上団体料金
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