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4+1コマで「応仁の乱」|逆引き歴史図鑑

日韓、米中、米イラン・・・国際関係の不和が、さかんに報じられています。職場や学校、家族など私たちの身のまわりにも「もめ事」はつきものです。そんな「もめ事」の“そもそも”を歴史をヒントに考えてみましょう。

逆引き歴史図鑑について
逆引き歴史図鑑は、時代を問わず起こり得る普遍的なテーマを、歴史をヒントに考えるプロジェクトです。出来事の流れを的確に把握し、図解を使って抽象化することでモノゴトの本質に迫ります。

「もめ事」は大きくなると恐ろしい

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誰しも「もめ事」に巻き込まれた経験はあるはず。人とちょっとした行き違いや、小競り合いは、人と人が関わる限り避けられません。

問題は、「もめ事」から大きな争いに発展すること。職場では社員同士の派閥争いになったり、学校なら昨日まで仲の良かった友だちグループがいがみ合ったり…。いつの間にか、人間関係がこじれにこじれ、収集がつかない事態に陥ることもあります。

好んで争い事をする人は多くはないはずなのに、なぜ自ら秩序を破壊するようなことが起こるのか? 日本史上最大級の「もめ事」といえる「応仁の乱」をヒントに考えてみましょう。

4コマで応仁の乱

応仁の乱を4コマでわかりやすく解説します。詳しく知りたい方は、下の関連用語を読んでください。

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「応仁の乱」をヒントに「もめ事」を考える

さまざまな家の家督争いや幕府の覇権争いが絡み合って、全面戦争に発展した「応仁の乱」。日本史の大きなターニングポイントでありながら、関ヶ原の戦い、源平合戦のようなはっきりとした構図が見えにくいのが難しいところです。

しかし、安心してください。テストのない大人は、細かい経緯や関係性を覚える意味はありません。

大きなファクターは、古い秩序(この場合は室町幕府)がすでに動揺していた、という点。

そんな中で、さまざまな利害関係が絡み合う(畠山・斯波の家督争いや将軍後継問題、細川・山名の覇権争い)と、混乱はどんどん大きくなっていきます(京都を舞台に全面戦争へ)。

結局、権力の基盤となっていた構造を権力者自身が揺るがす結果となり(一揆や家臣に地位を追われる)、まったく価値観の異なる時代がやって来るわけです(下剋上の時代へ)。

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同僚や友だちの人間関係が混乱する、現代の「もめ事」にも同じ構図が当てはまるケースがありそうです。

小さないざこざはどこにでもあるもの。しかし、まわりの人を巻き込んで派閥ができはじめたら、それは危険なサインです。「敵の味方は敵」の状態になると、「応仁の乱」のごとく職場や学校の大乱につながる可能性もあります。

もうひとつ大事なことは、「応仁の乱」が勃発する以前に、すでに秩序が動揺にしていたこと。職場や学校でも秩序が安定していれば、人間関係に折り合いがついているので、小さないざこざも表面化しにくいものです。

「もめ事」が大きくなったら、争いを俯瞰してみて、社内のまとまりが弱まっていないか、友だち同士の関係が変化していないか、など考えてみると気づくことがあるはずです。

関連用語解説

応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)

15世紀後半の内乱。嘉吉の乱後,将軍の権威は失墜し,守護家におこった相続争いは家臣団の分裂・抗争を軸に激化,守護勢力相互の均衡関係も崩れ,室町幕府体制は動揺した。
三管領(かんれい)のうち畠山・斯波(しば)両氏も家督をめぐる内紛でそれぞれ2派に割れ,ひとり勢力を維持した細川勝元と嘉吉の乱の功で強大化した山名持豊(宗全)が幕府の覇権を争う情勢となり,対立する諸勢力は両者のもとに結集し2大勢力が形成された。
さらに将軍足利義政の後継をめぐる弟義視(よしみ)と実子義尚(よしひさ)の相続問題が両派の争いに結びついた。両派の武力衝突は1467年(応仁元)1月,畠山義就(よしなり)と同政長の間に始まり,それぞれ自派の守護の軍勢を京都に結集,同5月全面戦争に突入した。
戦局は一進一退をくり返したのち膠着状態となり,戦火はむしろ地方へ拡大。乱にあたって東軍(細川方)は幕府を押さえ,西軍(山名方)も義視を擁し,幕府に似た政治機構を備えて対抗,東西二つの幕府の抗争として展開した。この間,在京守護大名の領国では守護代・国人(こくじん)の反乱や土一揆(つちいっき)がおこり,守護の帰国をうながした。
73年(文明5)に持豊と勝元が病没すると覇権争いの色彩は薄れ,翌年4月両軍は講和。77年西軍の大内政弘が幕府に帰降するに及んで西幕府は崩壊,諸大名は領国に下り,京都の戦乱はいちおう終息した。
乱の直接原因は家督争いや幕府での覇権争いだが,根本的には社会体制の変動にともなう諸矛盾に起因し,乱をきっかけとして諸国では守護代・国人あるいは守護による政治体制の再編成が進められた。乱ののち幕府・守護体制と荘園制は崩壊へむかい,幕府は山城を中心とする政権に転落,守護も多くは下剋上(げこくじょう)で没落し,時代は戦国大名の形成へむかった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語集:応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)

嘉吉の乱(かきつのらん)

1441年(嘉吉元)有力守護赤松満祐(みつすけ)が将軍足利義教(よしのり)を暗殺し,播磨国で幕府の追討軍に討たれた事件。
赤松氏は幕初以来の重臣で播磨・備前・美作各国の守護職を兼ねたが,1427年(応永34)将軍足利義持は満祐から3カ国の守護職を奪い討伐をはかった。しかし守護勢力の反対もあり断念。次の将軍義教は,政治力の強化を企て守護家の家督への干渉や反抗的大名の追討などによって守護大名抑圧策を強行。こうしたなか義教が満祐から播磨・美作両国を没収し,寵臣である赤松庶流の貞村に与えるとのうわさが広がった。
憤りと不安にかられた満祐は41年6月,結城合戦勝利の祝宴と偽って義教を自邸に招いて殺し,本国播磨に拠り幕府に反抗したが,同年9月,追討され敗死。赤松氏は没落し,領国は山名氏に帰した。事件は義教の守護抑圧策の行き詰りが招いたもので,かえって将軍権威の失墜をもたらした。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語集:嘉吉の乱(かきつのらん)

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