4コマで「鯨&捕鯨」

日本と諸外国で大きく味方が異なり、ときにあつれきを生む「鯨&捕鯨」の問題。ついに、2018年12月、日本政府はIWC(国際捕鯨委員会)からの脱退を表明しました。そもそも、日本の文化の中で、鯨はどのようにとらえられてきたのか? 4コマで解説します。

4コマで「鯨&捕鯨」

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古くは勇魚(いさな)・魚王・神魚・大魚とも。魚類とみられていたが、はじめて哺乳類と明らかにしたのは一七六〇年(宝暦一〇)に「鯨誌(げいし)」を著した山瀬春政である。近世、捕鯨地は別としてクジラに対する考え方は地域で異なった。クジラが諸魚を追って沿岸にマグロ・カツオ・イワシなどの回遊魚をもたらす漁村では、「鯨一頭七浦栄える」守護神・恵比寿神・魚王として崇拝されたが、加賀や蝦夷地・松前ではクジラの接近のため魚が寄りつかず、「鯨一頭七浦枯らす」沖の神として、その害を恐れた漁村もあった。捕鯨地では仏教の普及もあって神聖視され、碑・鯨墓・鯨過去帳などの作成による供養や、鯨神事も行われた。

日本史広辞典、660ページ、1997年、山川出版社

捕鯨

シャチなどに追われ、死傷した沿岸浮遊の流鯨や寄鯨の捕獲もあるが、一般的には海洋に乗り出して行う能動的なものを指す。鉾や銛などを使う突取法による捕鯨は、紀伊国太地では建保初年に、三河では元亀頃に始まった。一六〇六年(慶長一一)紀伊国でかつての水軍にならい刺手組による突組が編成されると、その技術と組織が伝わり、南房捕鯨や土佐・九州などの西海捕鯨業を興隆させた。七五年(延宝三)銛と網の併用網絡法が考案されると、従来捕獲が難しかったザトウクジラやイワシクジラも捕獲可能になり、和歌山藩では藩の主導で一七八九年(寛政元)以降、合同捕鯨業が起立。天保期に三陸の金華山沖で銃殺捕鯨が試みられ、明治中期の本格的な近代銃殺捕鯨法導入後、網絡法は姿を消す。日本ではクジラは、ほとんどが鯨油として活用された。

日本史広辞典、1948ページ、1997年、山川出版社

鯨方役所

和歌山藩の藩営捕鯨役所。古式捕鯨の発祥地の和歌山藩では一六六四年(寛文四)以来、古座浦に役所を設け、三〇〇石の米を給付し、常時三〇〇人の漁夫を抱え、潮岬沖合を漁場に春漁の下り鯨中心の捕鯨を行った。上方商人や和歌山藩堺産物方役所の融資も行われたが、しだいに経営は悪化し一八六六年(慶応二)廃止。二年後再開するが、劣勢を回復できなかった。同様の役所に津呂組・浮津組を管轄下においた六六年新設の高知藩捕鯨局もある。 日本史広辞典、660ページ、1997年、山川出版社

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