特集「大敗から学ぶ Vol.04」敗者の"その後"を解き明かす歴史家のアプローチ
本特集では、「大敗」を切り口に、これまでさまざまなジャンルの専門家から、人や社会を考える貴重な知恵をお聞きしてきました。最後に、山川出版社の新刊『戦国合戦〈大敗〉の歴史学』から、歴史家ならではのアプローチを紹介します。
大敗=滅亡ではない
天正十一(一五八三)年、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉の軍勢に大敗した柴田勝家は、手勢をまとめて越前北の庄城に籠城するも、まもなく自刃している。合戦が行われたのが四月二十一日、勝家が城を枕に自害したのは二十四日、<大敗>から落命まで要した時間はじつに三日にすぎない。ここでは明らかに、<大敗>が滅亡に直結しているのだ。同じような例としては、明智光秀や石田三成も<大敗>から短期間のうちに落命している。<大敗>すれば大将は哀れな末路をたどり、居城は明け渡され、領国は滅亡してしまう。その因果関係は疑いもないように見える。
しかし、このようなケースは、戦国時代の合戦のなかでは、むしろ少数派の事例になる。視野を広げてみると、合戦で<大敗>を喫しても、それが滅亡に直結しないものは多い。そのなかには武田勝頼や大友宗麟のように領国を維持しつづけた大名もいれば、あるいは、徳川家康や伊達政宗のように以前よりも勢力を強めていく大名すら存在するのである。
『戦国合戦〈大敗〉の歴史学』(「序<大敗>への招待」)より
合戦にいたるまでの経緯や、戦闘の経過、作戦の優劣が注目されることはあっても、勝敗がついた後には関心が向きにくいもの。勝者はともかく、敗者の戦後に光が当たらないのは仕方ないことなのかもしれません。
そんな中で、さまざまな「大敗」をテーマに、9人の歴史家たちが合戦の前後をつぶさに探っているのが本書です。
歴史に名を残す「合戦」と「大敗の影響」
本書では、例えば次のような合戦をテーマに、大敗が及ぼした影響を検証しています。
黒嶋先生は次のように述べています。
戦国時代はメディアにも取り上げられることが多く人気のある時代ですが、いざ研究してみると、史料の読み方の難しさや取り扱いに悩まされる、厄介なテーマでもあります。
ただ、そうした史料の森に分け入ることで、初めて見えてくる風景があります。
決して戦国の英雄だけが主役なのではなく、さまざまな人々の動きが見えてくることに面白さがあると思います。
史料をつぶさに読み解く歴史家ならではの分析に、ロマンをかきたてられます。
「長篠の戦い」と「戦後の軍事制度改革」
武田信玄の子、勝頼が織田・徳川の連合軍に大敗。戦国で恐れられた騎馬隊が、鉄砲という新しい武器に敗れたエピソードが有名。
1575年(天正3)5月21日,三河国設楽原(したらがはら)(現,愛知県新城市)で織田信長・徳川家康の連合軍が武田勝頼軍を破った戦。73年,信玄の死により武田氏の上洛作戦が中止されると,家康は北三河の奪還をめざして長篠城を攻略。翌年に勝頼が美濃・三河方面に進出して反撃し,遠江国高天神(たかてんじん)城を落とした。75年家康は長篠城に奥平信昌をいれたが,勝頼が同城を包囲したため,家康は信長に救援を依頼し,設楽原での両軍の対決となった。武田軍の騎馬戦法に対し,連合軍は鉄砲隊で応戦して勝利する。この戦で東海地域での織田・徳川両氏の優位が確定,織田軍の北陸・中国地方への展開が可能となった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
武田勝頼が長篠の戦いで大敗した後、天目山で自害し、武田氏が滅びるまでの間には7年あります。多くの人材を失った武田氏は、国内の軍事制度改革に迫られます。本書では、資料に基づいて改革の様子が検証されています。
「桶狭間の戦い」と「通説的な歴史像への疑問」
今川義元が織田信長に喫した大敗。当主の義元をなくした今川家は衰退ヘ向かい、勝者の信長は天下を目指します。
1560年(永禄3)5月19日,織田信長が尾張国桶狭間・大脇村付近(現,名古屋市と豊明市の2説)で今川義元を破った戦。武田信玄・北条氏康と同盟していた義元は,策略で奪った鳴海城支援のため,駿河・遠江・三河の3国の軍2万5000を率い,5月12日駿府を発った。17日沓掛(くつかけ)城に到着した義元は,19日西に進んだ。信長は,丸根・鷲津の両砦を救援するため,19日早暁清須城から出陣,同日午後2時頃,桶狭間山で休息中の義元前軍に攻撃をかけた。義元は退却を指示するが,前軍の敗走の混乱のなかで討たれ,今川軍は総崩れとなった。義元の進発を上洛のためとする説もあるが,最近では尾張・三河両国の境界争いのためとする説が有力。この戦は,今川氏の没落と織田氏躍進の起点となり,三河の松平(徳川)氏もこれをきっかけに今川氏から独立,信長と同盟した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
圧倒的多数の今川勢が、織田氏にまさかの大敗→少数で劣勢を覆した信長はすごい! そんなイメージが、織田信長のヒーロー像をつくる要因のひとつになっています。
本書では、本当に桶狭間はそこまで多勢に無勢の戦いだったのか? 複数の資料から合戦の全体像を見つめ直します。
「川中島の戦い」と「謙信の大敗」
越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄が、5回にわたって対峙しました。戦国のライバル関係を表すエピソードとして有名です。
戦国期,信濃国川中島周辺(現,長野盆地)で行われた武田信玄と上杉謙信の抗争。狭くは1561年(永禄4)の合戦をさすが,広くはこれを含め前後5回の抗争をいう。甲斐から北進して信濃制圧を狙う信玄と,越後の安全のためにこれを阻止しようとする謙信の衝突である。(1)53年(天文22)村上義清らが信玄に追われ謙信を頼ったため,謙信が信濃に出動し各所で交戦。この段階では武田勢力圏は長野盆地南端まで。(2)55年(弘治元)犀(さい)川をはさんで長期間対峙したが,今川義元の斡旋により双方撤兵。(3)57年信玄が葛山(かつらやま)城(現,長野市)を攻略したことから,謙信も信濃に出動,上野原(同市)で交戦。長野盆地は武田勢力圏に入った。(4)61年謙信は武田勢力の一掃を狙って出動,八幡原(はちまんばら)(同市)で衝突。信玄と謙信の一騎打があったといわれ,信玄の弟信繁が戦死するなど激戦だったが,信玄は謙信を撃退。(5)64年信玄が野尻(のじり)城(現,長野県飯山市)などを攻め,謙信は長野盆地に出動したが,両軍の交戦はなかった。以上の結果,上杉勢力は信越国境に追いつめられ,信玄は信濃をほぼ制圧,以後南進に転じた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
通説では激戦とされる川中島の戦いですが、史料を丹念に読み解くことで「上杉が大敗」したことを示しています。大敗が上杉の領国内に与えた影響を分析しています。
「三方ヶ原の戦い」と「歴史認識のプロセス」
若き日の徳川家康が喫した大敗。領国に侵入する武田信玄を迎え撃つも失敗。家康は命からがら居城の浜松城に逃げ帰りました。
1572年(元亀3)12月22日,遠江国三方原台地(現,静岡県浜松市)で,武田信玄が徳川家康を破った戦。72年10月,2万5000の軍勢で甲斐を出発した信玄は遠江に侵入,只来(ただらい)・二俣など徳川方の支城を落として浜松城に迫った。12月22日,徳川軍は,織田信長の援軍をあわせ1万1000の軍勢で三方原台地の信玄を攻撃するため城を出,三方原で両軍が激突。戦闘は武田軍の圧勝に終わったが,信玄は浜松城攻略を行わなかった。この戦は,家康が同盟軍の信長のため信玄を浜松城付近に釘づけにするため,あえて行ったものであった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
出典:用語集「三方原の戦い」
江戸幕府をひらいた英雄・徳川家康の大敗は、徳川中心の歴史観に乗じて、大きく脚色されたと筆者は分析します。歴史認識が形成されたプロセスを見ることができます。
編集部まとめ
『戦国合戦〈大敗〉の歴史学』は、「大敗」という新しい切り口で、戦国から近世の人と社会を見つめ直す本です。
黒嶋先生の次のような指摘は、私たちが歴史にふれる意義を教えてくれます。
「大敗」は大名にとって大きなショックだったことは事実ですが、その一方で大名家のなかでは、逆に結束を高めていったり、家臣たちの新陳代謝が進んだりという現象も起きています。
予期せぬ難しい局面でどのように組織がコントロールされ、また、周囲の状況がどのように動いていくのか。
一般的なイメージではないかもしれませんが、実は戦国大名の領国のあり方は柔軟で、現代の固定化された社会とは相当に違う部分があるのです。
学校の「歴史の勉強」は、必ずしもおもしろおかしいものではありませんでした。
本書のような専門書も「おもしろおかしい」とは言えませんが、文章の端々から、執筆者のみずみずしい意欲が感じられます。
自ら問題意識を持って取り組む歴史研究は、とても楽しい作業なのだ――
歴史家の情熱が伝わってくる一冊です。
この記事が気に入ったらいいね!しよう