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4コマで「万葉集」〜最後の一首のおまけ付き〜
いよいよ新元号「令和」が発表されました。中国古典ではなく、日本の古典から引用された元号は初めてだと、話題になっています。では、出典となった「万葉集」とは、どんな書物かご存知でしょうか? 4コマでまとめました。
4コマで万葉集
万葉集(まんようしゅう)
現存最古の歌集。20巻。長歌264首,旋頭歌(せどうか)63首,仏足石歌体歌1首と短歌4208首,計4536首の歌と,漢詩4首,文章1編ほかを収める。全巻に統一的な編集原理はみられず,数次の段階的成立が推測される。当初50首ほどの小歌巻を中心に増補し,雑歌・相聞(そうもん)・挽歌の分類を加えた現存巻1・2の原型が文武朝前後に成立。それにならって巻16までが天平末頃まで順次増補され,大伴家持(おおとものやかもち)の歌日記的歌巻が加えられて,宝亀年間か延暦初年に全巻がなったとみられる。最終的な編纂に家持がかかわったのは疑いないが,詳細はなお不明。表記法も巻によって異なるが,漢字のみによって記されているため,訓み方が早く忘れられ,951年(天暦5)「梨壺(なしつぼ)の五人」による加点(古点)が始まる。その後順次加点され(次点),鎌倉時代の仙覚(せんがく)によって全歌に訓が付された(新点)。全巻のそろった現存の写本はすべて仙覚の校訂をへたものである。雄略天皇や聖徳太子作とされる伝承歌を除けば,万葉の歴史は舒明朝に始まり,壬申の乱(672)までを第1期(初期万葉)とする。以後柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)によって歌を記しながら作ることが始まり,形式・抒情とも大きく発達した第2期(平城遷都,710年まで),山上憶良(やまのうえのおくら)・大伴旅人(たびと)・山部赤人(やまべのあかひと)らによって継承・発展された第3期(憶良の没した733年まで),家持らによる繊細・技巧的な歌の多い第4期(最終歌,759年まで)にわけるのがふつう。庶民の歌も多いが,基本的に,漢詩文に対抗しうる文芸として,古代貴族に享受された歌集とみるべきである。「新日本古典文学大系」「新編日本古典文学全集」所収。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
和同開珎(わどうかいちん)
708年(和銅元)に発行された金属貨幣。皇朝十二銭の1番目。5月発行の銀銭と,8月発行の銅銭があり,銅銭には鋳造時期により大別して古和同と新和同がある。「和同」は年号和銅とは別の吉語か。「珎」を「寳」の省画とみて「かいほう」と読む説もあるが,「珎」は「珍」であり,「かいちん」と読む説が有力。唐の開元通宝にならって銭貨制度を整え律令国家の儀容を整備するとともに,平城京遷都に要する莫大な経費を確保し財政運用の円滑化を図るため発行された。蓄銭叙位令や,畿内の調の銭納などによって京畿内を中心に広く流通するようになった。709年8月,銀銭の使用を禁止。和同銀銭の発行には,それまで貨幣的機能を担ってきた銀の地金の機能を,和同銅銭にうけつがせるための仲立ちとして意味があった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
日本(にほん)
古くは倭(やまと)と称し,ほかに大八洲(おおやしま)・葦原中国(あしはらのなかつくに)・秋津島(あきづしま)の称もあった。しかし大宝公式令(くしきりょう)に,外国使臣に「明神御宇日本天皇」の語を用いると定め,702年(大宝2)の遣唐使が中国で「日本使臣」と称し,「旧唐書(くとうじょ)」東夷伝に,倭国と日本国の両伝を記しているように,8世紀初めには日本という国号が国際的に認知されていた。しかも「旧唐書」に,倭がその字を悪(にく)み,国が日の辺にあるをもって日本と改めたとあるのは,すでに隋への国書に「日出ずる処の天子」と記した思想と同じであるから,大宝令以前に「日本」と記した史料をすべて追記であるとは断定できない。国際的用語としての日本の号は,呉音でニッポン,また促音をともなわないニホンと音読されたが,国内ではヤマトとも訓読された。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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