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山川出版社 わが社の生い立ち
この小文は、山川出版社の新入社員教育用として「わが社の生い立ち」を知って貰うために書いたものです。
戦後の混乱と山川出版社の創立
当社の創立は昭和二十三年ですから敗戦の混乱がまだ続いていて、国民は仕事をするにも原料が途絶えたり食料も足りないし、売れるものは日用品関係のものばかりです。探し求めた原料を使って自分の得意な仕事でなく何か生活用品を作ります。泥を固めたような薄黑ものでも石鹸だとわかるとすぐ売れてしまいました。終戦直後しばらくはそんな状態で、当社が始まったときでも似たような世の中だったのです。三井・三菱等の財閥も既に解体されたあとで、一般の会社は残っていても仕事、般の会社は残っていても仕事がなく、会社も人々もその日暮らしの状態でした。
そんな時に、お金も無いのに全く経験のなかった出版業の会社を作って、第一歩を踏み出すことができたのは不思議なくらいです。未曾有の混乱時代の話ではありますが、それだけが理由とは言えないでしょう。
では、そこのところをもう少し詳しく記してみましょう。そうすれば皆さんにも納得して貰えるところがあるかと思います。
創立者、野澤繁二
「事業は人なり」という言葉があります。普通には、一つの会社はそれを経営する人物の才能に左右されるから、その人を見れば企業の良否を知ることが出来るという意味に使われますが、最近は拡大解釈されて、その会社の社員の考え方、接客態度でその会社の事業方針がわかるというようにもなっています。どちらにしても、人の働きと会社の盛衰とは密接不離だということを言っています。
そこで、会社の生い立ちを話すにも、まず創立者のことから始めることにしましょう。創立者の野澤繁二は、戦後に中国から引揚げてきました。帰る会社はあったのです。川島屋商店といって現在の日興証券の前身です。そこへ入社するとき多少いきさつがありました。慶應義塾大学の経済学部を出たとき、入社試験に合格したのは東洋レーヨンといって、その当時、三井系の会社では一番の稼ぎ頭の会社だったのです。しかしそれを振り切って他の会社に行ったのですから、近頃の若い人達の傾向とは違うようです。生れ育ちが浅草で、父以前も神田の生れという因縁で、長ずるに及んで下町好みが強くなり、大会社の地方工場勤務に気持が向かなかったと言えなくもないでしょう。
(株式会社 山川出版社 創立者 野澤繁二)
証券会社と言えば、今でこそ内容も大きく、銀行もその領分に侵入されそうで心配するほどの業務内容に発展しましたから、もとの姿を想像しにくいのですが、昔はひとくちに「株屋」と言ったものです。堅実な利殖の考えは、その当時の株屋では極めて少なかったというのが実情でしょう。社員の気風も多少は派手で、宵越しの金は持たないという気分も通常の会社員より多かったかも知れません。そこへ自分から進んで入っていった野澤が感じたものは、自分をやさしく包んでくれる生れて以来馴れ親んだ下町の気分だったのではないでしょうか。それはその後数年の野澤の行動を振り返ればわかります。
生家は金持ではないけれどもお金に困る訳でもないので、給料を使い切ってしまっても文句は言われなかった。お酒の気分も好きだったので、会社の帰りは同好の者と必ず盃を交わした。株屋でも川島屋商店は大きかったので、調査部には学校出が多く、気分や趣味などで多くの友を得られました。今と違い、戦前は料理もお酒も安いのでお金の使い出があったことと、給料をみな使ってしまうほど人にも飲ませるので、まだ「社用族」と言われるものが無いその頃は、我ひと共に良い気分で遊べたのです。現代は昔と違い、そのようにやりたくても世の中が変ってしまって単純に比較は出来ませんが、昔の世相は貧しくとも何か余裕があったと言うことでしょう。しかしもう日米開戦は近づいていたのです。
出征、帰国、幼児のための教育絵本
その後出征して中国大陸での転戦ののち、故国の瓦礫の焼野原に立った時は齢既に三十一となっていました。
東京の家は健在でしたし、会社には出社もしましたが、敗戦のあとではどこの会社も、する仕事がないので困っていたのです。多感な野澤青年が何か自分に向いた新しい仕事をやりたいと思ったとしてもそれは極く自然の気持と言えましょう。しかし彼は学校を出るとすぐその会社に入りましたから、ほかの仕事の経験はないのです。未経験のことはやりにくいものなのです。野澤は中学生の頃から本を読むのが好きな文学青年でした。友人も同好の者が多かったのです。しかしいくら本が好きでも、それで何か仕事がすぐ出来るということにはなりません。
あるとき、絵を描くのがうまい昔の中学の同級生と話をしていて、幼児に仮名を覚えさせるための絵本を作ろうという話になってきました。友人は学校の教職に就いていたので、そのような教材ならまかせられそうでした。あとは印刷・製本用紙の入手や資金の手配が必要ですが、印刷・製本は幸いに出版に詳しい別の友人がおり、教えを請うことが出来ました。しかし用紙は大変です。前にも書きましたように、物が不足していましたから、あっても隠匿されて、値の高い客の方に流れてしまうのです。しかし計画している絵本は、売れる数も多くは望めないので小量で間に合うから入手は何とかなるでしょう。一番の難物は資金です。発行部数が少ないといっても、製造費用全部では、若者にとって自己資金だけでは無理です。今の世の中ならすぐ銀行から借りることを考えますが、その頃は今と全く事情が違っていて、普通の商売では銀行からの借入れは不可能だったのです。戦後の有名なドッジ・プランの緊縮政策でインフレを収拾している時なのです。世の中がそのような金融状態の時、若者が兎も角も小さな会社でも作って一仕事やろうとするには多少でもまとまった額のお金を提供してくれる誰かがいないことにはどうにもなりません。
野澤家が昔から親しくしていた山川力氏は大きな会社の副社長でした。この山川さんは篤志家で、自分の事業と関係のない分野の大学生何人かに、知人の教授を通して奨学金を出して卒業まで面倒を見たりしていた人です。教育ということに関心があったようです。その人の会社には野澤の実兄(利一郎氏)も長く勤めていて、野澤の人生計画も山川さんの耳に入りやすかったのでしょう。幼児のための教育絵本の話は、単なる金儲けの計画ではなくて、山川さん好みの方向の話でもあり、正式にお願いした時には野澤のためなら一肌脱いでやろうということになりました。
この本は絵の多いワークブックとでも言える種類のもので、『がくしゅうえほん』という書名にしました。本の発行所名はベターチルドレン協会としたのですが、児童書専門でやってゆくつもりでもなかったので、社名には特に意味はありませんでした。売行きは大成功とは言えませんがまあまあだったと思います。今ならば珍しい内容とは言えませんが、その当時としては類書は出ていなかったようです。その頃、三越本店の書籍部は仕入れがなかなかきびしいという噂があったようですが、そこから追加注文が来てリヤカーで納品したのがうれしかったので覚えています。
記念すべき出版第一号
まず一つ仕事は終りましたが、次の目当てもないので漫然と知人を訪ねたりしていました。そんなある日、中学の旧友のところで、近所に昔の恩師がおられるから行ってみようという話が出たのです。その先生はその頃、以前野澤を教えた府立一中という学校から他の学校の校長に転じていたのですが、自宅が類焼にあったため勤務校の宿直室に避難していたという訳です。野澤が教わった頃は東大の東洋史出の若手の先生で、脱線しながらの授業が人気のあった方でした。懐しくて是非お会いしたいものと、その学校へ行ってみました。たまたまそこに同席した見舞客がありましたが、その人は恩師と同大学同学科の後輩に当る人で、山口修さんと言い、野澤の中学後輩ということもわかって恩師を囲み話がはずみました。この時の山口さんとの出会いによって、山口さんたち少壮の東洋史学者が協力して一冊の本をまとめようということになったのです。今は平和な時代で本も書店にあふれていますが、戦後すぐは用紙も品薄で、新刊本は貴重品です。人気のある本が出ると本屋の前に行列ができたものです。著者も書きたいことがあっても発表する手段が少なかったのです。こうしたことがきっかけで、山口さんと同学の数人の少壮学者が力を合わせることになりました。若い魂に蓄積されていて出口を求めていたものが一斉にほとばしるように吐出されて巻を成しました。執筆期間三~四カ月という非常に短期間でしたが、申すまでもなく力作の出現となりました。『東洋の歴史』と題されたこの本は、戦前戦中を通じて偏向させられていた史学界への待望の書として歓迎され、山川出版社の記念すべき出版第一号となったのであります。
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