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【歴史の転換期 Vol.4】帝国の民となる、帝国に生きる
もしあなたの会社が海外のA会社を買収し、ある日突然、社長から「君、今日からうちの傘下になったA社の社員の面倒をひとつ頼むよ」といわれたらどうしますか?海外でのビジネス経験が豊富な人でなければ、大抵の人は不安になると思います。その理由の1つとして、文化や風習の異なる人々とのコミュニケーションの課題があるからかもしれません。
今回ご紹介するお話は、ローマが広大な領土をどのように管理したのかにポイントを絞り、ローマ式広域支配の方法に触れたいと思います。ローマがどのように文化や風習の異なる領土を支配したのかを知れば、きっとビジネスでも役立つはずです。また、ローマが共和政から帝政へとたどる道筋については、歴史の転換期第1巻『B.C.220年帝国と世界史の誕生』の中でわかりやすく描かれているので、そちらを読んで頂ければと思います。
システムの構築とエンパワーメント
ローマ人は、ある地域を支配すると、まず国勢調査を実施し土地台帳をつくります。もちろん目的は税金の徴収です。決められた土地を所有するという意識をもったことのなかった支配地の人々に、土地を分け与え、その代わり税を支払う義務を課したのです。土地台帳のようなシステムを整え、人々の情報を握ることは、支配側にとって最も重要な基盤づくりであると同時に、支配を正確かつ、格段にやりやすくしました。この徴税システムを構築すると、あとは現場を在地の有力者に任せました。在地の有力者たちは、ローマの支配に反抗しない限り、主体的に地域での統治活動が許されていたのです。
これはローマと在地有力者の両者にメリットがありました。在地有力者にとっては、ローマの後ろ盾を得ていることで、その地域支配を強めることができただけでなく、ステイタスも得ることができました。また、ローマにとっては、現地の有力者を味方につけることで、ごくわずかな中央政府から派遣された人だけで広大な帝国を効率的に統治できたのです。
インフラ整備の目的と付随効果
「すべての道はローマに続く」という言葉もあるように、ローマは都市と都市をつなぐ道路網を整えることに長けていました。インフラを整えることは領土支配に大変重要なことです。
我々は経済効果などに意識を向けますが、当時としては軍隊への物資供給に重要な役割を果たしました。もちろん商業も道路を通じ活発におこなわれるようになりますから、軍事的にも経済的にも発展することが可能になりました。流通面では道路だけでなく、河川交通も重視します。ローヌ川から北上してライン川・モーゼル川・セーヌ川を使うルートは、ゲルマニアやブリテンとの物資のやりとりに重要な役割を果たしました。河川沿岸の地域も、河川交通の恩恵を受けていきます。例えばモーゼルワインは、2世紀頃モーゼル地方でブドウ栽培が広まり、ワイン醸造が盛んになり、イタリアに河川で運ばれることで有名になりました。
ローマナイズの効用
ローマ人は、統治をはじめると同時にローマ風の生活様式を普及させることにつとめました。
具体的には言葉・法・宗教・衣服・建物など、生活のすべてにローマ風様式を流行らせました。大切なのは「強制した」のではなく、「流行らせた」という点です。
ローマ風のトーガを着てラテン語を読めることはクールだ!と思わせるわけです。
ローマ人のオープンなアプローチが、現地の人々をローマ帝国に惹きつけたのでしょう。ローマの文化に在地の文化が混ざり合ってもうるさいことはいいませんでした。現地の人も、そんな生活にあこがれをもち、少しずつローマ風の生活をとり入れるうちに「ローマ人」という意識すらもつようになりました。当時のローマの上層階級には修辞学的教養、すなわち古典の知識をもち、雄弁に語り美しく書くことのできる能力が求められていました。支配地に生まれながら、そうした才能を身につけ、ローマへやってきて活躍する人物も出てきます。最も有名なのが今のスペイン、コルドバ出身のセネカでしょう。その息子は皇帝ネロの師となりましたが、やっかみをかい、陰謀事件に巻き込まれ、悲劇の人生を歩みましたが・・・。さらに帝国最盛期には、イベリア半島とガリア出身者が帝国統治体制の頂点にたちます。「ローマ人」はこうしてイタリアから遊離して普遍的な存在になりました。これこそがローマの世界帝国としての意義なのです。
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