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源頼朝は、なぜ鎌倉に幕府を開いたのか?
教科書でも紹介される名刹、風情豊かな路地、話題のグルメと、魅力あふれる古都・鎌倉。すべては、およそ800年前、源頼朝がここに幕府を開いたことから始まった。
歴史散策の前に考えてみてはどうだろうか。そもそも、なぜ鎌倉だったのか?
日本史の教科書にヒントあり
『新 もういちど読む山川日本史』(以下「教科書」)では、次のように解説している。
説はいくつかあるが、定説では「防御に強い地の利」「源氏代々ゆかりの地」の2つに絞られそうだ。それぞれフカボリすべく鎌倉を歩いた。
「地の利」説を体感する遺構散策
上空からみれば、「三方を山でかこまれ、一方は海にのぞむ」鎌倉の地形は一目瞭然だ。
東・西・北を山に囲まれ、谷あいが入り組んだ複雑な地形。そして、南は相模湾。外敵が侵入しづらく、防御が固い地形であることは想像がつく。さらに、鎌倉時代につくられた人工の防御施設をあちこちで観察できる。代表的な遺構が「切岸」と「切通し」だ。切岸は山裾を垂直に切り落としたもの。敵の侵入を防ぐためと考えられており、中世の山城によく見られる防御施設だ。写真は尾根を挟んで鎌倉のお隣、逗子市にある「お猿畠の大切岸」。高さ3〜10mの人工的な崖が800mに渡り続いている。(写真 PIXTA)
切通しは、峠の難所などを掘削してつくった細い通り道。「鎌倉七口」と呼ばれる7カ所が有名だ。
鎌倉七口のひとつ「名越第一切通し」を鎌倉側から撮影。ご覧の通り、大人ひとりが通れる程度に道が狭められている。
反対側から名越第一切通しを見上げる。左右に高い岩壁がそびえ、道はカーブしており見通しが悪い。大勢が一斉に通るのは難しく、大軍の通行には時間がかかりそうだ。鎌倉側に兵を待機させれば、少数ずつ切通しを抜けてくる敵に対し、有利に戦えるはずだ。
現代のような重機がない時代、巨大な岩石を掘削するのは、半端な土木工事ではなかっただろう。しかし、鎌倉一帯の岩石は「鎌倉石」と呼ばれる凝灰質砂岩でできており、比較的掘削・加工がしやすい。その点でも「地の利」があったと言えるかもしれない。
こうして遺構を歩くと、まるで強固な城塞都市を築くために鎌倉が選ばれたように思える。しかし、鎌倉市教育委員会文化財部文化財課の鈴木庸一郎さんによれば、事情は少し違うようだ。
「調査の結果、切岸のような垂直の壁が、旧鎌倉地域の内側にたくさん作られていることがわかりました」
敵を侵入させないための切岸なら、外側の斜面につくるのが定石のはず。近年では、切岸は防御施設ではなく採石場だという説もある。
「鎌倉の街は階段状の地形になっています。山を削って土地を広げ、土砂を敷き詰めて平場をつくり、武家屋敷や寺院の敷地を確保したと考えられています。旧鎌倉地域の浄光明寺や寿福寺は背後に岩肌が露出しており、造成工事の痕跡がみられます」
相模湾にも注目していこう。鎌倉の南東にのびる材木座海岸。干潮になると沖合にガレキの島「和賀江嶋」が沖合に姿を現す。日本最古の築港遺跡で、鎌倉時代に勧進上人往阿弥陀仏がつくったと伝わる。
当時盛んだった中国や日本各地との貿易に海運の果たす役割は大きい。鎌倉は海に面する利はあるが、海岸が遠浅のため船荷の揚げおろしに不便で難破船も多かった。そこで、人工島をつくり港としたのだ。
「源氏代々ゆかりの地」説をフカボリする
では、このような造成工事が必要な地になぜ頼朝は鎌倉に幕府を置いたのだろうか?
「軍事的、政治的な理由というより、先祖代々のゆかりの地だったことが大きいでしょう。後に幕府の重臣となる千葉常胤は、頼朝を房総に迎えたとき、鎌倉入府を進言しました。源氏の棟梁が拠点とするべきは、関係性の薄い房総ではなく、先祖から受け継いだ土地だと考えたのではないでしょうか」
鎌倉歴史文化交流館の展示パネルより。土地の構造がわかりやすく紹介されている。
ならば、なぜ源氏の祖先は鎌倉を拠点にしたのか? さらに鈴木さんに聞くと、
「奈良時代に鎌倉郡の役所が置かれた記録があります。相模国の中でも、古くから中心的な地域のひとつだったのでしょう。隣の逗子市では、この地域にはめずらしい大きな前方後円墳(長柄桜山古墳群)が発見されています」
つまり、古墳時代から大きな勢力が地域に根を下ろしていたということ。なぜか?
「かつて、東海道は横浜や東京方面を通らず、三浦半島から船で東京湾を横断し房総半島へ渡るルートでした。鎌倉は交通の要衝だったのです」
東海道の一部が東京湾の海路だったとは!(街道に海路が使われたケースはほかにもあり、江戸時代の旧東海道の熱田(愛知県)−桑名(三重県)間の「七里の渡し」などが有名。)現在の東京湾では、久里浜港(神奈川県)−金谷港(千葉県)間を東京湾フェリーが運航している。
このような立地にある鎌倉は三浦半島西側のつけ根に位置し、京都方面からは半島の玄関口にあたるため、人や物が集まり易い場所だったと推測すれば、当時の鎌倉の有力者が勢力を持つのも不思議はない。
では、源氏はいつから鎌倉にゆかり持ったのだろう。ゆかりを持ったのは平安時代後期。頼朝から5代前にあたる源頼義が鎌倉を所領とし、京都の石清水八幡宮を勧請し、由比ヶ浜に由比若宮が誕生。およそ120年後、頼朝は現在の位置に鶴岡八幡宮を遷し祀り、以降鎌倉の街づくりの中心となった。
「?」を持つと歴史散歩はもっとおもしろい
源氏代々ゆかりの地だった鎌倉は、切岸、切通し、和賀江嶋と、地の利を生かし弱点を克服した知恵の痕跡が遺されている。史跡となった歴史を知り、さらに「なぜ?」「どのように?」と疑問を持ちながら歩くと、古都の景色はいっそう趣を増す。
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