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【歴史の転換期 Vol.7】理想と策略の相まみえる中国政治の面白さ
リーダシップは十人十色。また、どんなリーダーに惹かれるかも十人十色。時代に関係なく、理想を実現するために必要なことの1つには、潮流を見極める力や柔軟に対応する発想力と行動力などが求められるのかもしれません。今回は、ヨーロッパでアドリアノープルの戦い(詳しくは、【歴史の転換期 Vol.6】古代の移民問題をご覧ください。)が起きた378年、中国はどのような状況だったのか、その時のリーダーはどんな理念を持ち、どんな行動をおこしていたのかを見ていきます。
中国の378年
北方には、並び立つ遊牧系民族による小国を併呑した覇者たる氐族の秦(前秦)がおり、江南には漢族の東晋が古代帝国秩序を何とか継続させていました。この両者が中国のちょうど南北を分かつ淮河を挟んで向かい合う状況でした。淮河は黄河や長江ほど大きな川ではありませんが、この川の南と北では気候も言語も食生活もことなります。地政学的に越えにくい一線でもある淮河を境に対峙していたということは、北方世界と江南世界の対立を象徴しているといえるでしょう。 地図で淮河のさらに西に眼を向けると、襄陽という町があります。378年、秦はこの東晋が守る襄陽を攻略すべく兵を進めていました。
民は何に従うのか
東晋は、この時点ではまだ兵隊の人数や巧みな戦力で北方にまさり、ローマ帝国がゲルマン人を傭兵としていたように、北方民族出身者を兵として使っていました。
しかし、人徳のない皇帝が続き、「蛮族には降らない」という帝国にありがちな自負と偏見が強くなると、東晋に仕えていた北方出身者の気持ちは徐々に離れていきました。また、王族どうしの争いなどが頻繁になると、知識のあるものたちの中には「下手に宮仕えして頭角を現したりするとつぶされる」という風潮も広まりました。
「竹林の七賢」という語を習ったことがあると思いますが、これもそうした知識人が、政権から離れた竹林で哲学の話でもしていれば狙われない、ということで集まってきた人たちのことです。
皇帝の理想と有能な部下
そのうちに弓馬能力、スピーディーな攻撃に優れた北方民族が徐々に優勢になってきます。
そこで頭角を現した秦の皇帝苻堅は、帝国というものについて漢民族とは全く違う考えを持っていました。 漢民族のように、すべての蛮族を自分の支配下におく中華思考とは違い、民族が相争うことなく皆でまとまる1つの統一国家が作れるのではないか、という理想を抱いていました。
つまり、「人は信に対して信で応える」と信じていたのです。
苻堅には王猛という参謀がいました。王猛は漢人でしたが、この苻堅の人望を気に入り参謀となりました。中国の参謀は、自分が信じられる理想と意志を持つ君主であれば、どの国の君主であろうと、その理想を現実にすることに自分の能力をプロフェッショナルに発揮することに努めます。
まさかの敗北
苻堅の理想と王猛の策略により、秦は次々と周りの国を傘下に入れ、降伏した国のものも手厚く保護し、国土を広げていきました。 378年から5年後、383年に北方民族の混成部隊を率いた苻堅は漢族の東晋に戦いを挑みました。それが淝水の戦いです。北方民族集団は100万以上、対する東晋は8万程度。苻堅は今こそ自分の夢、中国を統一し理想の帝国を築く夢がかなうと思ったに違いありません。しかし、大軍は敗北を喫したのです。
なぜ負けたのでしょうか?
リーダーは理想を追うだけではならない
「天下を統一し、万民をやすめる」という平和的で現代でも通じそうな苻堅のスローガンが万民に受け入れられなかったのでしょうか。
結論からいうと、理想は理想であり現実は違ったのです。
出身の違う民族を力で1つにまとめるということが、平和をもたらすことなのか、支配者側のおごりではないか、という問題がおこります。敗れた国のものを手厚く処遇すると、逆にもともとの秦のものは某かの妬みのような感情を抱きます。 それまでも苻堅は、配下に入れた国を篤く対処したのにもかかわらず裏切られるということに何度が遭遇します。そのとき、彼は裏切られたのは自分の徳が足りないからだと反省し、徳治政治を実現させようとします。「これほどいたわっているのに背くようなものはいないだろう」という考えは、裏を返せば自分の寛大さを過剰に評価しているともいえるのではないでしょうか。
つまるところ、リーダーとは平和主義・徳治主義を貫くだけではだめで、理想と現実の狭間で、手綱さばき1つで人の心がつかめなくてはならないのです。これは現在各地で台頭するポピュリズムの動きに対する各国のリーダーの動きとも結びつく話でしょう。
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