4コマで「忠臣蔵」

本日、12月14日は「忠臣蔵」で有名な赤穂浪士討ち入りの日です。日本人のハートを熱くする敵討ちのストーリーは、現実の事件を基につくられました。

4コマで「忠臣蔵」

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仮名手本忠臣蔵

人形浄瑠璃。時代物。11段。2世竹田出雲・並木千柳(宗輔)・三好松洛合作。1748年(寛延元)8月大坂竹本座初演。1702年(元禄15)の赤穂浪士の吉良邸討入事件を脚色。47年(延享4)に京都中村粂太郎座上演の「大矢数四十七本」で沢村宗十郎の大岸宮内(大石内蔵助)が大当りをとったことに刺激されて作ったという。赤穂浪士物の集大成で,本作の影響下に数多くの忠臣蔵物が作られた。「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」とともに3大名作と称される。歌舞伎には初演の年の12月大坂角の芝居に移され,翌年江戸三座で競演。以来,上演のたびに客が大入りになる作品といわれ,歌舞伎独特の演技や演出が工夫されて,今日に至る。

山川 日本史小辞典(改訂新版)、188ページ、2016年、山川出版社

赤穂事件

1702年(元禄15)12月14日,播磨国旧赤穂藩の浪士47人が吉良義央を襲撃して殺害した事件。前年3月14日,勅使饗応の席で赤穂藩主浅野長矩が吉良に刃傷し,即日切腹,浅野家はとりつぶされた。旧臣たちは,当初御家の再興を期待する穏健派と即時主君の怨みを晴らすべしとする急進派とが対立したが,前者が挫折した結果,討入りとなった。浪士たちは翌03年2月4日,徒党を組み幕府高官を殺害したとの理由で切腹させられた。この事件は,浪士らの行動が義にかなったものか否か,とりわけ主君への忠誠という武士意識と幕法への違反という道徳の相剋をめぐって儒学者を中心に論争の的となった。事件後「仮名手本忠臣蔵」など演劇・文学の題材にもなり,日本人の心情倫理ともからんで,現在でも映画やテレビなどでとりあげられている。

山川 日本史小辞典(改訂新版)、17ページ、2016年、山川出版社

浅野長矩

1667〜1701.3.14。 江戸前期の大名。播磨国赤穂藩主。内匠頭。1675年(延宝3)父長友の遺領5万3000石余を継ぐ。93年(元禄6)水谷勝美改易の際,備中国松山城を守衛。1701年,年頭の勅使の饗応役を命じられたが,指導役の吉良義央と対立し,3月14日江戸城中松之廊下で義央に斬りつけ,即日切腹に処される。浅野家は改易,これが赤穂事件に発展した。

山川 日本史小辞典(改訂新版)、20ページ、2016年、山川出版社

吉良義央

1641.9.2〜1702.12.15。 「よしひさ」とも。江戸前期の高家。義冬の子。母は酒井忠勝の弟忠吉の女。幼名三郎,通称左近。上野介。法名実山。1653年(承応2)幕府に出仕,従四位下侍従,従四位上左少将に任じられた。68年(寛文8)家督と高家肝煎を継ぐ。1701年(元禄14)勅使江戸下向の接待をめぐって,播磨国赤穂藩主浅野長矩が江戸城中で刃傷沙汰に及び,長矩は即日切腹となった。義央は高家役の辞退を願い隠居したが,翌年浅野家旧臣の討入りで斬殺された(赤穂事件)。義央は尊大な気風と悪評高いが,領地三河国吉良地方(愛知県西尾市付近)では,富好新田の開発や黄金堤の築堤など水利事業を行った名君との評価もある。

山川 日本史小辞典(改訂新版)、254ページ、2016年、山川出版社

大石内蔵助(大石良雄)

1659〜1703.2.4。 播磨国赤穂藩浅野氏の家老。幼名喜内,通称内蔵助。知行高1500石。山鹿素行に軍学を,伊藤仁斎に漢学を学んだとされる。1701年(元禄14)藩主浅野長矩の切腹,城地没収に際し,家中を統括して浅野家再興をめざしたが,その可能性を断たれた02年12月,吉良義央を殺害して,喧嘩両成敗のかたちを自力で完遂させた。幕命により熊本藩下屋敷に預けられ,翌年自刃。赤穂事件は赤穂の浪士らが幕府の方針に反した犯罪者か義士かで,当時から論争になった。一般には文学作品や演劇の題材にとりあげられるなかで,忠君の義士のイメージが定着し,大石の指導者としての理想像が形成されていった。

山川 日本史小辞典(改訂新版)、120ページ、2016年、山川出版社

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