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4コマで武田信玄〜すぐわかる戦国武将シリーズ〜
群雄割拠の戦国時代でも「甲斐の虎」と恐れられ、ひときわ存在感を放つ武田信玄。肉親とも争い、戦いに明け暮れた人生は、戦国大名の生き様を象徴しているのかもしれません。
4コマで武田信玄
関連用語
武田信玄(たけだしんげん)
生没 1521~73.4.12 戦国期の武将。実名晴信(はるのぶ)。甲斐・信濃を中心に勢力圏を築いた。1541年(天文10)父信虎を追放して家督をつぐ。42年諏訪頼重を滅ぼし,53年村上義清を追い,55年(弘治元)木曾義昌を従えて信濃を制圧。前後に越後の上杉謙信としばしば交戦(川中島の戦),1554年には駿河国今川氏・相模国後北条氏と同盟を結んだ(善徳寺の会盟)。65年(永禄8)長子義信がそむいたが,四子勝頼を嫡子にたて,67年義信を切腹させた。68年同盟を破って駿河に進攻,今川氏真(うじざね)を没落させ,後北条氏と戦った。後北条氏とは71年(元亀2)同盟を復活。その後遠江・三河に進攻,72年徳川家康・織田信長軍を破るが(三方原の戦),まもなく死没。内政面では村落掌握を進め,御家人衆・軍役衆を設定。さらに信玄堤で有名な治水事業,甲州金で知られる金山開発を行い,富国強兵に努めた。1547年には「甲州法度之次第」を制定。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語:武田信玄(たけだしんげん)
武田信虎(たけだのぶとら)
生没 1494~1574.3.5 戦国期の甲斐国の武将。武田信玄の父。戦国大名武田氏の基礎を築いた。1507年(永正4)家督となる。小山田・大井両氏などを破り,天文初年までに甲斐を統一。この間19年には本拠を石和(いさわ)から甲府に移した。外交面では相模・駿河・信濃などへ進攻したが,37年(天文6)今川義元,40年諏訪頼重をそれぞれ女婿とし,同盟を結んだ。しだいに独断専行が多くなり,家臣団の支持を失う。嫡子信玄より次子信繁を愛したこともあって,41年信玄により駿河に追放された。63年(永禄6)まで今川氏に保護されるが,以後諸国を流浪したのち,信濃国高遠(たかとお)(現,長野県伊奈市高遠町)で死没。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語:武田信虎(たけだのぶとら)
上杉謙信(うえすぎけんしん)
生没 1530.1.21~78.3.13 戦国期の越後国の武将。長尾為景の子。初名景虎,ついで上杉政虎・同輝虎,入道して謙信。武田・後北条両氏などと戦い,戦国武将を代表する1人だが,その勢力圏はほぼ越後一国にとどまった。1548年(天文17)家督となり,50年守護上杉定実の死去により名実ともに越後国主となる。武田信玄の信濃北部への進出に対抗。53年信濃に出動し,以後しばしば武田勢力と戦った(川中島の戦)。北条氏康に関東を追われた関東管領上杉憲政を保護。60年(永禄3)から翌年にかけて憲政を擁して関東に進出,氏康の本拠相模国小田原城(現,神奈川県小田原市)を攻めたが,攻略できなかった。このとき憲政から上杉姓と関東管領職を継承,以後ほぼ毎年関東に出動したが,成果を残せなかった。武田・後北条両氏の敵対により,69年後北条氏と同盟したが,短期間で破れた。北陸方面では73年(天正元)越中を制圧,さらに能登・加賀に進攻,織田信長軍と戦った。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語:上杉謙信(うえすぎけんしん)
川中島の戦(かわなかじまのたたかい)
戦国期,信濃国川中島周辺(現,長野盆地)で行われた武田信玄と上杉謙信の抗争。狭くは1561年(永禄4)の合戦をさすが,広くはこれを含め前後5回の抗争をいう。甲斐から北進して信濃制圧を狙う信玄と,越後の安全のためにこれを阻止しようとする謙信の衝突である。(1)53年(天文22)村上義清らが信玄に追われ謙信を頼ったため,謙信が信濃に出動し各所で交戦。この段階では武田勢力圏は長野盆地南端まで。(2)55年(弘治元)犀(さい)川をはさんで長期間対峙したが,今川義元の斡旋により双方撤兵。(3)57年信玄が葛山(かつらやま)城(現,長野市)を攻略したことから,謙信も信濃に出動,上野原(同市)で交戦。長野盆地は武田勢力圏に入った。(4)61年謙信は武田勢力の一掃を狙って出動,八幡原(はちまんばら)(同市)で衝突。信玄と謙信の一騎打があったといわれ,信玄の弟信繁が戦死するなど激戦だったが,信玄は謙信を撃退。(5)64年信玄が野尻(のじり)城(現,長野県飯山市)などを攻め,謙信は長野盆地に出動したが,両軍の交戦はなかった。以上の結果,上杉勢力は信越国境に追いつめられ,信玄は信濃をほぼ制圧,以後南進に転じた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
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武田勝頼(たけだかつより)
生没 1546~82.3.11 戦国期~織豊期の武将。武田信玄の子。1565年(永禄8)兄義信の失脚により嗣子となる。73年(天正元)信玄が死に,76年正式に家督となった。この間遠江・三河に進攻したが,75年織田信長・徳川家康軍に大敗し(長篠の戦),以後しだいに守勢となった。78年後北条氏とも敵対関係になり,東西に大敵を抱えた。81年本拠を甲府から新府(現,山梨県韮崎市)に移したが,82年木曾義昌・穴山梅雪らがあいついで信長・家康に通じ,これに呼応して織田・徳川軍は諸方面から甲斐・信濃に進攻。小山田信茂の離反もあって,甲斐国田野(現,同県甲州市)の天目山(てんもくざん)の戦で追いつめられ自殺。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語:武田勝頼(たけだかつより)
織田信長(おだのぶなが)
生没 1534.5.12/28~82.6.2 戦国期~織豊期の武将。父は信秀。幼名吉法師。1546年(天文15)元服。信秀没後,本家の清須(洲)(きよす)・岩倉両織田家を滅ぼし尾張を統一。60年(永禄3)桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元を破り,67年美濃斎藤氏を降して岐阜に居城を移す。この頃から天下統一を意識して「天下布武」の印章を用いた。翌年,足利義昭とともに上洛し,義昭を将軍に擁立したが,その政治行動を牽制,ほどなく両者は不和となった。義昭に呼応する近江浅井・越前朝倉両氏をはじめ,比叡山延暦寺僧徒,甲斐武田氏,一向一揆などの包囲をうけて苦戦したが,73年(天正元)義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼした。75年長篠の戦で武田勝頼に大勝し,同年越前の一向一揆を鎮圧。翌年近江に安土城(現,滋賀県近江八幡市安土町)を築いて移った。80年石山本願寺を攻め降し,畿内を平定。82年春甲斐に遠征して武田氏を滅ぼし,つづいて中国・四国制圧を期して上洛中,本能寺で明智光秀の謀反にあい自害した(本能寺の変)。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典リンク
用語:織田信長(おだのぶなが)
徳川家康(とくがわいえやす)
生没 1542.12.26~1616.4.17 江戸幕府初代将軍(在職1603.2.12~05.4.16)。三河国岡崎城主松平広忠の長男。母は同刈谷城主水野忠政の女(於大(おだい)の方)。岡崎生れ。幼名竹千代,通称次郎三郎,諱は元信・元康・家康と改称。法号安国院。6歳から織田信秀,8歳から19歳まで今川義元の人質。1555年(弘治元)元服,60年(永禄3)桶狭間の戦で義元の敗死後に自立,61年織田信長と結んで三河平定。66年徳川に改姓,70年(元亀元)居城を浜松とし,姉川の戦で信長を助け,75年(天正3)長篠の戦で武田氏を破る。駿府に本拠を移して駿河・遠江・甲斐・信濃・三河の5カ国経営にあたったが,90年北条氏の滅亡後は関八州へ転封となった。豊臣秀吉の死後はいわゆる五大老の筆頭となり,1600年(慶長5)9月関ケ原の戦で石田三成を破り,天下統一をなす。03年征夷大将軍に任命され,従一位右大臣,源氏長者となり,江戸幕府を開いた。05年将軍職を子の秀忠に譲った後も,駿府で大御所政治をとった。15年(元和元)大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし元和偃武(えんぶ)を実現。16年3月太政大臣に任官,4月駿府城で病死。遺言で久能山に葬られたが,17年正一位を追贈,東照大権現の勅号をうけ,日光山に改葬された。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語:徳川家康(とくがわいえやす)
三方原の戦(みかたがはらのたたかい)
1572年(元亀3)12月22日,遠江国三方原台地(現,静岡県浜松市)で,武田信玄が徳川家康を破った戦。72年10月,2万5000の軍勢で甲斐を出発した信玄は遠江に侵入,只来(ただらい)・二俣など徳川方の支城を落として浜松城に迫った。12月22日,徳川軍は,織田信長の援軍をあわせ1万1000の軍勢で三方原台地の信玄を攻撃するため城を出,三方原で両軍が激突。戦闘は武田軍の圧勝に終わったが,信玄は浜松城攻略を行わなかった。この戦は,家康が同盟軍の信長のため信玄を浜松城付近に釘づけにするため,あえて行ったものであった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語:三方原の戦(みかたがはらのたたかい)
信玄堤(しんげんづつみ)
戦国期,甲斐国の武田信玄が築いた堤防。現在の山梨県甲斐市竜王にある。甲府盆地は釜無川・笛吹川・荒川などの河川が合流し,古くから洪水の被害をうけた。信玄は家督を継ぐと,大規模な治水工事を行った。釜無川・御勅使(みだい)川の合流点は最も洪水がおこりやすいので,御勅使川分水工事を行い,釜無川東岸に堅固な堤防を築き堤防上に竹木を植えて防水林とした。堤防は一直線ではなく,雁行状に重複して配列する霞堤(かすみづつみ)とよばれるもので,急激な大出水にも決壊しない独特の工法であった。これにより近世初頭には多くの新田開発が行われた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語:信玄堤(しんげんづつみ)
甲州金(こうしゅうきん)
甲金とも。室町末~江戸時代に都留郡をのぞく甲斐一国内で通用した金貨。金山開発が進んだ武田氏支配下ですでに金貨が発行されたが,江戸初期に松木氏が金座を命じられ鋳造を行った。1695年(元禄8)の元禄金銀の改鋳時に一時通用停止となったが,1707年(宝永4)から品位を下げて鋳造された。元禄以前を古甲金,改鋳後を甲安金とよぶ。11年(正徳元)にはさらに品位を下げたが,21年(享保6)から甲重金,27年から甲定金を鋳造して古甲金並の品位に引き上げた。はじめ一両金もあったが,主体は円形の一分・二朱・一朱金,矩形の朱中金(1朱の半分)などであり,量目の基準はおもに1両を4匁とする田舎目が用いられた。文政期以後幕府金貨が流入するなかで姿を消した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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