4コマで「元号」

2018年、さまざまなシーンで「平成最後の◯◯」が話題になりました。平成は終わりますが、元号制度は法律により続けられます。では、そもそも「元号」という概念は、どのように生まれ、受け継がれてきたのでしょうか?

4コマで「元号」

元号 元号 元号 元号

元号

年号とも。紀年法の一形態。紀元前140年に前漢の武帝によって立てられた建元に始まる。日本では645年の大化が最初の元号である。その後断絶があったが,701年の大宝以後は連続して,現在の平成に至る。明治改元以後は一世一元の制が定められ,践祚にともなう改元に限定されたが,それ以前は,祥瑞・災異・三革(辛酉・甲子・戊辰の年)などさまざまな理由で頻繁に改元された。改元の手続きとしては,紀伝道から提出された複数の候補をもとに,大臣・参議らが陣の座において新元号を決定,天皇により改元詔書が公布されるのを常とした。1868年(慶応4)の明治改元の際,一世一元が定められるとともに,これら改元手続きは大幅に簡略化され,皇室典範(明治22年発布),登極令(明治42年公布)の制定をへて制度的完成をみた。しかし戦後,新たに定められた憲法・皇室典範には,元号に関する条項が設けられず,その法的根拠は失われた。このため1979年(昭和54)に元号法が制定され,元号制定に関する権限は内閣に属することとなった。

山川 日本史小辞典(改訂新版)、298ページ、2016年、山川出版社

改元

元号を改めること。改元の理由には大きくわけて代始・祥瑞・災異・革年の四つがある。代始改元は天皇の践祚(即位)に伴う改元で,践祚の翌年に改元する踰年改元が原則であった。祥瑞改元は珍しい自然現象や動植物などの出現による改元で,奈良時代に多い。災異改元は彗星・地震・旱魃・洪水・飢饉・疫病・火災・兵乱などの天変地異や人災による改元。革年改元は辛酉・甲子の年には変乱が多いとする辛酉革命・甲子革令説にもとづく改元。そのほか,平安時代には陰陽思想で厄年にあたる年の改元もあった。改元は本来天皇の権限であったが,室町時代以降には武家政権の発議・主導による改元が多くなった。明治改元の際に一世一元の制度が採用され,以後,改元は天皇の代始に限られている。

山川 日本史小辞典(改訂新版)、159ページ、2016年、山川出版社

武帝

前漢第7代の皇帝劉徹(在位前141〜前87)。充実してきた国力を背景に,内政では封国への統制を強めて皇帝の中央集権体制を確立し,外政では前108年に衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪等の4郡をおくなど,周辺諸国を平定して領土を拡大した。しかし連年の匈奴征討にともなう増税などで国内は疲弊した。

山川 日本史小辞典(改訂新版)、862ページ、2016年、山川出版社

一世一元の制

天皇の治世のはじめに定めた年号を,一代の間,改元せずに使用する制度。桓武朝の延暦をはじめ,平安前期には一世一元の時期もあったが,のち祥瑞・災異・辛酉革命・甲子革令などさまざまな理由にもとづく改元が行われるようになり,天皇一代に数号の年号という場合すらみられた。このような改元頻発からくる煩雑さを省くため,1868年9月8日の明治改元の際,改元詔書ならびに行政官布告を通じて一世一元の制が定められた。また1889年発布の皇室典範,1909年公布の登極令によって,より明確化するかたちで法制化された。

山川 日本史小辞典(改訂新版)、65ページ、2016年、山川出版社

大化の改新

7世紀半ばの一大政治改革。中国の隋唐的律令国家形成の過程で,645年(大化元)中大兄皇子・中臣鎌足が中心となって,蘇我氏本宗家の政権を倒壊させた乙巳の変に続いて,おもに大化年間に行われた。改革の主体は,孝徳天皇・左大臣阿倍内麻呂・右大臣蘇我倉山田石川麻呂・内臣中臣鎌足らであったが,改革派の代表である中大兄皇子と国博士となった僧旻・高向玄理の役割が重視されている。内容は,地方人民支配に関するものと中央政府内部のものとに大別される。前者は,旧来の部民制を廃して公民制を創出することで,全国を国・評(大宝令の郡)に区画し,さらに「五十戸一里制」によって人民を編成する。その開始は,「日本書紀」大化元年(645)8月条の造籍・班田を目的とする東国国司の派遣記事により確認でき,これが東国のみでなく全国的なものであったことも確認できる。その基本方針の決定は,646年元日の改新の詔,同年3月の皇太子奏および同年8月の品部廃止の詔に示されている。その成果としての全国的評制の成立は「常陸国風土記」などの史料により,「五十戸一里制」も飛鳥京跡出土の「白髪部五十戸」木簡により確認される。次に中央の改革は,改新の詔において,部民制の廃止にともない諸豪族に食封・布帛の支給が示され,さらに中央官制構築のため,647年に13階,649年2月に19階の冠位が制定されている。これは推古朝の冠位十二階が対象としなかった大臣など上層部と,職業部の伴造層(百八十部)を含む全官人を包摂したものである。これをうけて,649年2月に高向玄理と僧旻により「八省百官」がおかれたが,これは将作大匠・刑部尚書などの唐直輸入の官名が示すように,なんらかの中国的官制の成立を意味するものと考えられる。これらの官名がその後の改革に継承されていないことから,このような性急な改革は必ずしも実を結ばなかったとみられるが,ある程度の中央官制の整備は認められよう。652年(白雉3)に完成した難波長柄豊碕宮(前期難波宮)は,規模・構造の両面でのちの藤原宮に匹敵するもので,大化の改新の政治改革のいちおうの終結を示すものといえる。

山川 日本史小辞典(改訂新版)、577ページ、2016年、山川出版社

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