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インフォグラフィックで、もういちど読む山川世界史vol.11〜中世中国3「宋」〜
大帝国を築いた唐朝が、300年の歴史を終えたのは907年。最盛期には国際色豊かな貴族文化が栄えました。分裂の五代の時代を経て、宋朝が中国を再統一。貴族に代わる支配層が、新たな経済、文化、社会を築いていきます。
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中国社会の新展開〜『新 もういちど読む 山川世界史』より〜
武人政治の興亡:五代
唐末,地方で勢力をふるっていた節度使は,唐がほろぶとそれぞれ独立したので,中国はふたたび分裂状態におちいった。この時代を五代(907~960年)といい,わずか半世紀あまりのあいだに多くの国が興亡した。これらの諸国では武力を背景とした政治(武断政治)がおこなわれ,部下のものが武力で君主を倒して政権をとることがくりかえされた。
五代の時代は,中国社会の転換期でもあった。唐末以来の戦乱によって,これまで政治や経済の実権をにぎっていた貴族が没落し,かわって新興地主が登場してきた。彼らはつぎの時代に,支配層として大きな役割をはたすようになる。
官僚制国家の成立:宋
五代最後の王朝の節度使であった趙匡胤(太祖〈位960~976〉)は部下におされて960年に宋(960~1279年。北宋は960~1127年)をたて,開封に都した。宋はやがて中国を統一したが,文治主義政策をとり,節度使を廃したりその実権をうばったりして文官の官僚を重用し,中央集権をおこなって皇帝の権力を強化した。官僚はおもに新興地主や富商の子弟が科挙によって任命されるようになり,官僚をだした家は官戸として徭役(労役)の免除などの特権があたえられた。
宋では文治主義が徹底し,文化や経済は発達したが,武力は弱く,異民族のたてた遼や西夏の侵入に苦しんだ。こうした異民族への対策や官僚機構の拡大による支出がふえ,やがて財政難におちいった。そのうえ土地の集中化や大商人の圧迫により自作農や中小商工業者が没落し,社会的矛盾が大きくなった。
そこで11世紀後半,神宗が登用した宰相の王安石は財政再建と富国強兵をめざして政治の改革をおこなった。これが新法といわれるもので,農民に低利資金を融通する青苗法,小商人に融資する市易法などを実施した。これは大地主や大商人の利益をおさえる政策であったため,司馬光ら保守派官僚の反対にあい,いたずらに新法党・旧法党両派の党争を激化させる結果となって,政治の再建に失敗した。
南宋の推移
12世紀初め中国東北で金がおこると,宋の首都開封をおとしいれ,皇帝をとらえてつれさった(靖康の変,1126~27年)。そこで難をのがれた皇帝の弟が江南で即位して南宋(1127~1279年)をたて,臨安(杭州)に都した。南宋ははじめ金と戦いを続けたが,やがて和を結び,国境を定めた。その結果,宋は淮河以南を領有するだけになったが,長江下流域(揚子江)の開発がさらに進み,平和にめぐまれて繁栄した。しかし13世紀にはいると国力がおとろえ,1279年モンゴル帝国にほろぼされた。
【コラム】宋代の都市
唐代までの都市は政治的・軍事的性格が強かった。城壁に囲まれた都市の内部にも坊というブロックがあり,それぞれ夜には閉門し,人びとの行動が束縛されていた。しかし,唐中期ごろからこうした都市の性格は変化し,大運河の北と南で,物資の集積センターだった開封と杭州が北宋と南宋の都になったように,宋代には商品経済(貨幣経済)の発達にともない都市も経済的性格が強くなった。しかも坊制による閉鎖性はなくなり,城内の庶民は夜間でも自由に繁華街に出入りすることが多くなり開放的だった。開封・杭州は人口100万とも150万ともいわれ,宮城や役所の周辺には金融街,倉庫,グルメ街,医師・薬局街,商店街,住宅街がひしめいて豊かな都市生活が展開された。
早朝4時ころには衣服や書画・骨董品の市がたち,夜明けになると食べ物の店や屋台,やがて菓子や工芸品(アクセサリー・家具・道具類)の店舗となり,時々刻々あらゆる種類の商品が庶民の消費生活をうるおした。
閉店は午前0時ころで,都市全体がさながらコンビニエンスストアだった。夜には「酒楼」などの盛り場がにぎわい,「芸妓」「座もち」「使い走り」などが客を楽しませた。都市に欠かせないサービス業もあらゆる種類があり,レンタカーならぬレンタル馬,葬儀・祝儀のレンタル用品もそろっていた。さらに豊かな庶民生活を反映して大小劇場から道端での芸能もさかんで,唄・芝居・マジック・くぐつ(人形芝居)・影絵・軽業・落語・狂言などから亀や蛙の芸にいたるまで,日常的に娯楽・レジャーが提供されていたのである。
こうした大都市の庶民的で明るい性格は,程度の差こそあれ地方の中小都市でもみられ,宋代の一般的傾向だった。また農村と都市の結び目や交通の要地には「鎮」「草市(市集)」という準都市ができ,網目状に経済的都市が結びついて,宋代の商品経済システムが全国に機能していったのである。
社会・経済の発展
宋代には新興地主を母体とする官僚が政治的・社会的に大きな力をもったが,その基礎は広大な荘園にあった。荘園は主として佃戸(農奴的小作人)によって耕作され,重税に苦しむ中小自作農には没落して佃戸となるものも少なくなかった。
宋代には産業がおおいに発達し,経済は成長した。長江デルタ地帯の水田稲作が技術的にも進み,米の生産が急激に高まったほか,桑・麻・茶などの栽培がふえ,農作物の商品化が著しくなった。また絹織物や陶磁器などの手工業も発達し,商業がさかんになり,遠隔地間の大規模な取引もおこなわれた。外国貿易はとくにイスラーム教徒との海上貿易がめざましく,広州・泉州・明州(寧波)などの大貿易港が繁栄した。商業がさかんになるにつれて銅銭を主とする貨幣経済が発達し,紙幣(交子・会子)も使用された。また大小多くの商業都市がおこり,唐代に存在した商業に対する制限も廃止され,都市在住の庶民の生活が向上し,商工業者は同業組合(行・作)をつくって相互の利益をはかった。
庶民文化の発達
宋代には社会の変化に応じて,文化にもあたらしい傾向がうまれた。官僚を中心とする新興地主が文化の担い手となったので,従来の優雅な貴族文化とは異なる個性の強い簡素なものがたっとばれた。学問・思想では,儒学に宋学がおこった。それは南宋の朱熹(朱子)が大成したので朱子学ともいわれ,儒教の真髄を求めて,四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を重んじ,宇宙の原理や人間の本質など哲学上の諸問題を論議した。これに対し陸九淵(陸象山)は人間の心性を重んじ,その説は明代の陽明学の源流となった。
また宋代にはたえず北方民族の圧力をうけていたので民族意識が高まり,大義名分論がとなえられ,歴史学が重んじられ,司馬光の『資治通鑑』などの歴史書がつくられた。文学では欧陽脩・蘇軾(蘇東坡)など文章の大家が多数あらわれ,絵画では写実的な画風で職業画家を中心に発達した院体画とともに,主観的表現をたっとぶ知識人が描いた文人画(南宗画として発展)がおこった。なお仏教では禅宗や浄土宗が栄えた。
宋代は都市の庶民の生活が向上したので,詞(一種の歌謡)・小説・戯曲など庶民文芸が発達した。また自然科学的な知識も進んで,羅針盤や火薬が発明され,印刷術が普及した。陶磁器の製造技術も向上し,精巧な青磁・白磁(宋磁)がつくられた。
関連用語
宋(そう)
Song ・〔南朝〕420~479 劉宋(りゅうそう)ともいう。魏晋南北朝時代の南朝の王朝。…続きを読む
宋学(そうがく)
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北宋(ほくそう)
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武断政治(ぶだんせいじ)
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高宗〔南宋〕(こうそう)
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