足利義政(あしかがよしまさ)
生没 1436.1.2~90.1.7 室町幕府の8代将軍(1449.4.29~73.12.19)。6代義教(よしのり)の子,母は日野重子。初名義成(よししげ)。法名慈照院喜山道慶。従一位左大臣・准三宮・贈太政大臣。同母兄義勝の早世で後嗣となる。当初,管領畠山持国・細川勝元が幕政を主導したが,成長とともに将軍親裁の傾向を強め,政所執事伊勢貞親を重用して守護大名抑制策を進めた。1466年(文正元)諸大名が共同して貞親を失脚させると,義政の政治的基盤は弱体化し,翌年畠山氏の家督争いに際し双方の実力による解決を容認するにいたる。これが細川勝元・山名持豊の対立を激化させ,大名勢力を二分する応仁・文明の乱の勃発を招いた。73年(文明5)嫡子義尚に将軍職を譲り,83年東山山荘に移って東山殿と称されたが,義尚の近江出陣まで政務に関与し続けた。89年(延徳元)義尚の死で再度執政するが,翌年病没。芸能風流を好み,芸能者・文化人を庇護するなど,東山文化の興隆を支えた。家集「源義政公集」。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
この記事が気に入ったらいいね!しよう