恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)
奈良中期の反乱。光明皇太后の死で後楯を失った恵美押勝(藤原仲麻呂)の権力基盤が弱体化すると,孝謙太上天皇の発言力がしだいに強まり,その寵愛を得た道鏡(どうきょう)が台頭。762年(天平宝字6)6月,孝謙と押勝のたてた淳仁天皇との不仲が表面化し,孝謙は皇権分離の宣命(せんみょう)をだして天下大事・賞罰の執行を宣言した。12月,押勝は子弟を参議に任じて退勢の挽回を図るが,官人層の反発を招き失敗。764年9月2日,押勝は都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に就任して軍事権の掌握をもくろむが,11日に密告により計画が露見して機先を制され,中宮院の鈴印を孝謙方に奪われた。越前への敗走もはたせず,近江国で斬死。孝謙は淳仁を廃して淡路国に幽閉し,称徳天皇として重祚(ちょうそ)した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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