越中国(えっちゅうのくに)
北陸道の国。現在の富山県。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では礪波(となみ)・射水(いみず)・婦負(ねい)・新川(にうかわ)の4郡からなる。7世紀後半に越国(こしのくに)とよばれた北陸地方を分割して成立。はじめ管郡は8郡であったが,702年(大宝2)頸城(くびき)郡以下4郡を越後国に移管。741~757年(天平13~天平宝字元)は能登国を併合した。国府・国分寺・国分尼寺は射水郡(現,高岡市)におかれた。一宮は高瀬神社(現,南砺市)。「和名抄」所載田数は1万7909町余。「延喜式」では調庸は綿を主体とするが,中男作物として紅花・漆・胡麻油・鮭などを定める。平城宮跡出土木簡に鯖の例がある。平安時代以降,立山が霊山として知られ,多くの修行者を集めた。鎌倉時代の守護ははじめ比企(ひき)氏,承久の乱以降は名越氏。室町時代は畠山氏。守護所は国府と射水川を挟んだ対岸の現在の射水市放生津(ほうじょうづ)にあり,一時高岡市の二上(ふたがみ)山麓におかれたこともあったらしい。守護大名・戦国大名は育たなかった。近世は金沢藩領とその支藩の富山藩領となる。1871年(明治4)の廃藩置県の後,富山藩は新川県となり,翌年七尾県の所管であった射水郡を合併。76年石川県に併合されたが,83年富山県が再置された。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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