生没 ?~623.2.22 飛鳥時代の高句麗からの渡来僧。595年(推古3)来朝し,聖徳太子の仏法の師となる。よく仏教を広め,翌年に法興寺が完成すると百済僧慧聡(えそう)と住し,ともに三宝の棟梁と称された。615年,太子の三経義疏(さんぎょうぎしょ)をたずさえて本国に帰る。622年2月22日の太子の死去を聞いて大いに悲しみ,みずからも翌年同日に浄土で太子との遭遇を誓約し,言のとおりに没したという。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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