廃藩置県(はいはんちけん)
藩体制を完全に解体した明治初期の政治改革。藩体制の解体と郡県制への移行の問題は,王土王民論の思想にもとづいてすでに江戸末期から論じられ,維新後の明治政府にとって最大で緊要の課題であった。1869年(明治2)6月の版籍奉還,翌年9月の藩制改革などを通して,政府は藩に対する統制を強化したが,財政悪化などのために自発的に廃藩を願い出る藩が出始め,69年12月の吉井・狭山両藩を皮切りに,71年6月までに14藩に及んだ。さらに税制や兵制の改革,政府内部の対立,不平士族や農民らの不穏な動きによる地方の動揺などの問題を解決するために,強力で集権的な政府を樹立する必要に迫られた。71年2月薩長土3藩からの献兵による御親兵を設置し,その武力を背景に7月14日詔を発し,261藩の廃藩置県を断行した。各県には政府任命の知県事(のち県令)をおき,同時に官制改革を行って急速に中央集権化を進めたが,同時に政府の薩長土肥4藩による藩閥化も目立つようになった。廃藩により全国は3府302県となり,統廃合を重ねて同年末には3府72県となった。知藩事は廃藩置県と同時に廃止されて東京在住となり,旧領地との関係を断ち切られた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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