細川忠興(ほそかわただおき)
生没 1563.11.13~1645.12.2 織豊期~江戸初期の武将。藤孝の長男。若年から父とともに織田信長に従い,松永久秀討伐をはじめ戦功をたてた。本能寺の変に際しては室のガラシャ(明智光秀の女)を一時離縁して光秀の誘いをしりぞけ,豊臣秀吉から丹後一国を安堵された。文禄の役では2年半朝鮮に滞陣。秀吉没後は親徳川派となり,関ケ原の戦功で豊前小倉39万石余に移封。1620年(元和6)病気により隠居し,剃髪して三斎宗立(さんさいそうりゅう)と号した。32年(寛永9)子忠利の国替えで肥後に移り,八代(やつしろ)を居城とした。引退後もつねに藩政や軍事について忠利を指導し,幕府有力者との関係保持に努めた。茶道は千利休の高弟で三斎流をおこした。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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