細川重賢(ほそかわしげかた)
生没 1720.12.26~85.10.22 江戸中期の大名。肥後国熊本藩主。父は4代宣紀。越中守。1747年(延享4)兄宗孝が江戸城内で旗本板倉勝該(かつかね)に斬りつけられ不慮の死を遂げたため同年遺領相続。48年(寛延元)初入国し改革の決意を表明。用人堀勝名を大奉行に抜擢し,行政機構改革,「刑法草書」編纂による刑法改正,司法と行政の分離,衣服令細則の制定,櫨方(はぜかた)役所の設置による専売制の企画,検地による隠田摘発など,宝暦の改革を推進し一応の成功を収めた。また55年(宝暦5)藩校時習館開設,57年医学寮(再春館),翌年薬園蕃滋園を開く。博物学に関心を示し「聚芳図」などを著した。上杉治憲・徳川治貞・佐竹義和とともに四名君といわれる。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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