宝治合戦(ほうじがっせん)
三浦氏の乱とも。1247年(宝治元)6月5日,安達一族と執権北条時頼によって,三浦泰村一族が滅ぼされた事件。前年(寛元4)の宮騒動以後,泰村は弟光村が前将軍藤原頼経と近かったため,反時頼勢力の中心と目されていた。三浦氏の勢力に脅威を感じる安達景盛は,4月,三浦氏打倒の画策をめぐらして時頼に密訴し,鎌倉の緊張が高まった。時頼の勧めにより,6月5日,和平を約した泰村に対し,景盛が子の義景,孫の泰盛らに泰村邸を襲撃させると,時頼もこれに応じて北条実時に幕府守備を,時定に泰村邸襲撃を命令,三浦一族は源頼朝の墓所法華堂にたてこもって全員自殺した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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