寛永の飢饉(かんえいのききん)
1642年(寛永19)を中心に全国的な被害をもたらした飢饉。1640年西日本での牛の大量死を端緒に,翌年から43年にかけて全国に凶作・飢饉が広がった。その自然的原因は牛死以外にも,旱魃(かんばつ)・洪水・冷害など地域によりさまざまだが,「取りからし」の表現にみられるように,領主層の収奪がそれに拍車をかけた面も指摘される。江戸幕府は42年大名・旗本に対し,国元・知行地での対策を命じるとともに,東日本と西日本にわけてそれぞれ飢饉対策のための担当役人をおいた。これら飢饉への対応の経験は,その後の幕藩領主層による農政の転換に大きな影響を与えた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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