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元弘の乱(げんこうのらん)

1331年(元弘元)後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を企てて挙兵した事件。1324年(正中元)正中の変によって,天皇とその近臣らによる討幕計画は失敗に終わったが,天皇はその後も親政を続けた。その後,大覚寺統の邦良親王が病死し,持明院統の後伏見上皇の皇子量仁(かずひと)親王が立太子するに及んで,討幕計画は再び具体化し,寺社勢力に働きかけるなどした。しかし31年4月,天皇の身を案じる吉田定房が幕府へ通報したため討幕計画は露見,首謀者の日野俊基(としもと)・文観(もんかん)らは六波羅探題(ろくはらたんだい)によって逮捕された。8月,天皇は京都を脱出し,奈良をへて山城国の笠置(かさぎ)に拠ったが,関東から派遣された幕府の大軍の攻撃によって敗退(笠置山の戦)。天皇に呼応した楠木正成の赤坂城も落城し,天皇は捕らえられた。幕府は,量仁親王(光厳(こうごん)天皇)を践祚(せんそ)させて後伏見上皇の院政とし,俊基・文観ら首謀者の処罰を行い,32年3月,後醍醐天皇を隠岐へ配流した(以上の経過のみを元弘の乱とよぶことも多い)。その後も幕府に対する抵抗運動は続き,32年末には後醍醐天皇の子護良(もりよし)親王が吉野で,楠木正成が河内国で挙兵し,さらに護良親王の令旨(りょうじ)をうけて,播磨国の赤松則村ら各地の反幕府勢力が挙兵。幕府軍が鎮圧に手間どるなか,33年閏2月,天皇は隠岐を脱出して名和長年のもとに身をよせ,伯耆国の船上山(せんじょうさん)に拠って討幕の綸旨を発した。これに対して,幕府は名越高家・足利尊氏を大将とする大軍を派遣したが,高家は久我畷(こがなわて)で赤松則村に討たれ,尊氏は丹波国の篠村で天皇側に寝返り,六波羅を攻撃。5月7日,六波羅探題北条仲時らは,合戦ののち光厳天皇と後伏見・花園両上皇を擁して関東へ脱出をはかったが及ばず,9日,近江国番場の蓮華寺で自刃,光厳天皇と両上皇は捕らえられた。以後各地の武士は討幕に立ちあがり,上野国に挙兵した新田義貞は,5月18日,足利千寿王(義詮(よしあきら))らとともに鎌倉を攻撃。22日,北条高時以下北条氏一門と御内人(みうちびと)は東勝寺において自刃,鎌倉幕府は滅亡した。25日には鎮西探題の北条英時も少弐貞経・大友貞宗・島津貞久らの攻撃によって博多で戦死した。六波羅滅亡の知らせをうけた後醍醐天皇は,23日船上山をたち,元号を元弘に復し,6月5日京都に戻った。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

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