吉良義央(きらよしなか)
生没 1641.9.2~1702.12.15 「よしひさ」とも。江戸前期の高家(こうけ)。義冬の子。母は酒井忠勝の弟忠吉の女。幼名三郎,通称左近。上野介。法名実山。1653年(承応2)幕府に出仕,従四位下侍従,従四位上左少将に任じられた。68年(寛文8)家督と高家肝煎(きもいり)を継ぐ。1701年(元禄14)勅使江戸下向の接待をめぐって,播磨国赤穂藩主浅野長矩(ながのり)が江戸城中で刃傷沙汰に及び,長矩は即日切腹となった。義央は高家役の辞退を願い隠居したが,翌年浅野家旧臣の討入りで斬殺された(赤穂事件)。義央は尊大な気風と悪評高いが,領地三河国吉良地方(愛知県西尾市付近)では,富好(とみよし)新田の開発や黄金堤の築堤など水利事業を行った名君との評価もある。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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