清浦奎吾(きようらけいご)
生没 1850.2.14~1942.11.5 明治~昭和前期の官僚政治家。肥後国生れ。日田の咸宜(かんぎ)園に学ぶ。維新後司法省で累進,のち内務省警保局長となり,山県有朋(やまがたありとも)の知遇を得る。司法次官をへて,1896年(明治29)第2次松方内閣と第2次山県内閣の司法相,第1次桂内閣では司法相・農商務相を務めた。91年から15年間貴族院勅選議員を務め,日清戦争後には研究会の山県系議員の中核として動いた。1906年枢密顧問官となり,14年(大正3)には組閣命令をうけたが,海相が得られずに辞退(鰻香(まんこう)内閣)。22年枢密院議長に就任,24年1月貴族院を基礎に組閣したが,第2次護憲運動に敗れて半年で退陣。伯爵。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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