吉備氏の反乱(きびうじのはんらん)
吉備氏による5世紀の反乱伝承。吉備の諸豪族は,椿井(つばい)大塚山古墳(京都府木津川市)出土鏡と同笵の三角縁神獣鏡をもつ湯迫(ゆば)車塚古墳(岡山市)の存在や,日本武(やまとたける)尊の従者であった吉備武彦など,比較的大和王権に対し協力的だったことが知られる。だが5世紀後半の雄略朝には,むしろ反乱伝承が多い。「日本書紀」雄略7年,吉備下道臣前津屋(さきつや)は天皇に不敬を行ったため物部の兵士に滅ぼされ,妻の稚媛(わかひめ)を雄略に奪われた吉備上道臣田狭(たさ)も任那で反し,派遣された田狭の子の弟君(おときみ)も田狭に通じたので,その妻に殺された。さらに雄略没後,稚媛が生んだ星川皇子も皇位をのぞみ,上道臣一族がこれを支援したので,大伴室屋(むろや)らに滅ぼされたという。これらを事実の反映とする説もあるが,大和王権の全国平定を強調する「日本書紀」の編纂姿勢,とくに物部・大伴氏らにより造作されたとする説もある。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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