興福寺(こうふくじ)
奈良市登大路町にある法相宗大本山。南都七大寺の一つ。寺伝では,669年(天智8)藤原鎌足(かまたり)の死去に際し,その妻鏡女王(かがみのおおきみ)が山背国の山科に建立した山階(やましな)寺を起源とし,天武朝に飛鳥に移して厩坂(うまやさか)寺と称し,さらに平城遷都にともなって左京3条7坊の地に移し,興福寺と称したとする。藤原氏の氏寺であるが,720年(養老4)に官寺に列した。藤原氏の勢力拡大にともない,時々の有力者によって豪壮な伽藍が整備され,広大な寺領を保有し繁栄した。教学面ではとくに法相宗が栄え,元興(がんごう)寺の南寺伝に対して北寺伝と称された。757年(天平宝字元)藤原仲麻呂が恒例とした当寺の維摩会(ゆいまえ)は,平安時代に薬師寺最勝会(さいしょうえ)・宮中御斎会(ごさいえ)とともに南都三大会(さんだいえ)(南京三会(なんきょうのさんえ))と称された。平安時代には春日大社をも配下におき,摂関家との関係を強め,摂関家の子弟(貴種)が当寺の別当につくようになった。院政期には当寺の衆徒(しゅと)が春日大社の神木を奉じて入京,強訴(ごうそ)を行い,延暦寺衆徒とともに「南都北嶺(なんとほくれい)」として恐れられた。1180年(治承4)平重衡(しげひら)の焼打をうけたが復興され,鎌倉時代には大和国守護職として一国の支配権をもち,一乗院・大乗院の両門跡が寺務を統轄した。のち両門跡の対立や衆徒の自立などでしだいに衰退したが,江戸時代には寺領2万石余を所有した。明治初年の神仏分離で春日大社とわかれ,廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で打撃をうけた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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