好太王碑(こうたいおうひ)
広開土王碑とも。正しくは国岡上(こくこうじょう)広開土境平安好太王陵碑。好太王の没後2年の414年,遺体を山陵に移したとき,子の長寿王が好太王の事績を顕彰する目的で建てた碑。当時の高句麗の王都国内(こくない)城(丸都(がんと)城はこれに接続する山城)の東郊,現在の中国吉林省集安市にある。高さ約6.2mの不整形の方柱。四つの側面全体に文字が刻され,全字数約1800字のうち約200字は欠損のため判読できず,その読解にもさまざまな議論がある。碑文の内容は,3段にわかれ,最初に始祖鄒牟(すうむ)王の建国伝承と好太王の治政の特徴,建碑の経緯を記す。次に,好太王の事績を王号の永楽年号で編年に記す。遼東の稗麗(ひり)(契丹(きったん)の一部族)や夫余(ふよ)との戦争も記すが,ほとんどが南方の百済(くだら)・新羅(しらぎ)および倭(わ)との戦闘・交流記事で,中国関係の記事がみえない。そのうち,従来最も重視されてきたのが,永楽6年(396)条の前文にある「百残新羅旧是属民,由来朝貢。而倭以辛卯年来,渡海,破百残□□□羅,以為臣民」の部分で,倭が半島南部に進出し,百済・新羅に対して外交的優位にたっていたことを意味するとされてきた。続く6年・9年・10年・14年条では,高句麗が倭の援助をうけた百済を攻め,倭の侵略をうけた新羅を助けて倭と戦ったと記す。しかし,倭が大和王権であることは一般に認められているものの,どこまで歴史的事実であるかは理解がわかれている。碑文の最後には,王陵の守墓人が列挙されているが,これも当時の高句麗の政治力を知るうえでの貴重な史料である。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
この記事が気に入ったらいいね!しよう