弘安の役(こうあんのえき)
1281年(弘安4)モンゴル(元)・高麗軍による日本侵攻。文永の役後の1275年(建治元)元は杜世忠(とせいちゅう)を派遣して再度服属を要求したが,鎌倉幕府は杜世忠を鎌倉竜口(たつのくち)で斬殺。79年南宋を滅ぼしたフビライは日本再征を決意し,81年1月に日本遠征出発の命を下した。遠征軍は,忻都(きんと)・洪茶丘(こうさきゅう)が指揮するモンゴル人・漢人3万と金方慶(きんほうけい)が指揮する高麗人1万の計4万人,900隻の東路軍と,アタハイ(阿塔海)・范文虎(はんぶんこ)の指揮下で,南宋の降兵を主体とする10万,3500隻の江南軍の2軍にわけられた。東路軍は5月3日,合浦(がっぽ)(現,韓国慶尚南道馬山)を出発し,対馬・壱岐を攻め,一部は長門を侵攻,主力は6月6日博多湾に進む。しかし,防塁や日本軍の激しい防戦で上陸を阻まれ,壱岐さらに肥前国鷹島に退いた。江南軍は6月18日に浙江(せっこう)南部の慶元(けいげん)(現,寧波(ニンポー))を出発し,7月に平戸島付近で東路軍と合流し,7月27日鷹島に移動。しかし激しい暴風雨にあい,閏7月1日元軍はほぼ壊滅。被征服民が主力の元軍は戦意に乏しいうえ,両軍の連絡が悪く,作戦面の不備がめだった。第3回の遠征も計画されたが,フビライの死により中止。日本の防備体制は鎌倉末期まで異国警固番役が継続し,九州に鎮西(ちんぜい)探題が設けられるなどその後も続いた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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