熊本藩(くまもとはん)
肥後藩とも。肥後国熊本(現,熊本市)を城地とする外様大藩。1587年(天正15)豊臣秀吉は球磨(くま)郡を除く肥後一国を佐々成政(さっさなりまさ)に与えたが,成政は検地を行って国衆一揆をひきおこし,翌年除封。ついで肥後国北部9郡に加藤清正,南部4郡に小西行長が配されたが,行長は関ケ原の戦で西軍に属して改易,東軍の清正が小西氏領の大部分と豊後国の一部を加増されて成立。54万1000石余。1632年(寛永9)2代忠広の子光広が幕府から謀反の嫌疑をうけ同氏は改易,豊前国小倉藩主細川忠利が入封した。以後12代にわたる。忠利は翌年から領内の人畜改め,地撫(じぶ)検地などを実施,地方(じかた)支配機構は小倉時代の手永(てなが)制度を採用した。6代重賢は堀平太左衛門を登用して宝暦改革を実施,藩校時習館の創設,刑法草書による法制の整備などを行った。藩領は肥後国12郡と豊後国3郡のうちで54万1000石余。江戸時代を通じ有明・八代両海岸での干拓地が約2万4000町歩にのぼった。詰席は大広間。支藩に宇土・熊本新田(高瀬)両藩がある。廃藩後は熊本県となる。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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