松山藩(まつやまはん)
伊予国松山(現,愛媛県松山市)を城地とする外様大藩のち家門中藩。1595年(文禄4)加藤嘉明(よしあき)が淡路国志智から伊予国正木(のち松前(まさき))に6万石で入封。関ケ原の戦後,20万石に加増されて城地を勝山に移し,松山と改称して立藩。1627年(寛永4)嘉明が陸奥国会津に転封となり,出羽国上山(かみのやま)から蒲生忠知が入ったが,34年無嗣断絶。35年に家門の松平(久松)定行が伊勢国桑名から入封,以後15代にわたる。藩領は伊予国10郡のうち15万石。初代定行は長崎異国船来航時の防衛責任者であった。4代定直は俳諧を好み,天明~文化期に松山俳壇は栗田樗堂(ちょどう)により隆盛を迎えた。14代定昭は1867年(慶応3)老中就任。詰席は溜間。藩校明教館。江戸中期に支藩松山新田藩があった。戊辰戦争後,朝敵として一時高知藩に軍事占領された。廃藩後は松山県となる。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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