明治14年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)
国会開設問題などをめぐって1881年(明治14)に政府内部におこった政変。1879~80年自由民権派の国会開設運動が高まるなかで,政府は国会開設の構想づくりに着手し,諸参議がつぎつぎに意見書を提出した。81年3月,大隈重信が早期国会開設(83年)とイギリス流政党政治の実現を左大臣有栖川宮熾仁(たるひと)親王に提出すると,伊藤博文らは漸進論の立場から反対し,右大臣岩倉具視(ともみ)はプロイセン流君権主義的憲法の制定を説く井上毅(こわし)起草の意見書を提出した。また同年7~8月,開拓使官有物払下げをめぐり,これを進める黒田清隆と反対する大隈が対立した。さらに財政政策の対立も加わって,保守派の大隈排撃の動きも高まり,政府内部の軋轢(あつれき)が深まった。結局,同年10月,御前会議をへて払下げの中止,大隈の諭旨免官が決定し,明治23年に国会を開く旨の詔書がだされた。この政変を契機に政府の主導によるプロイセン流立憲政治実現の動きが進められた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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