源義朝(みなもとのよしとも)
生没 1123~60.1.3 平安後期の武将。為義の長男。母は藤原忠清の女。通称左馬頭(さまのかみ)。鎌倉を本拠に勢力を拡大,所領相論をおこしながら在地武士を組織化。上洛して1153年(仁平3)従五位下,下野守となり,翌年家督を継ぐ。56年(保元元)保元の乱では,平清盛らとともに後白河天皇側の主力をなした。義朝の主張した夜襲により天皇側は勝利を収め,その功により従五位上・左馬頭に任じられ,昇殿を許された。崇徳上皇側に加わった父や兄弟の助命嘆願は許されず,斬首した。後白河天皇の近臣藤原通憲(信西)や清盛と対立し,59年(平治元)藤原信頼と組んで平治の乱をおこしたが失敗。尾張国知多郡野間(現,愛知県美浜町)で長田忠致(おさだただむね)に殺された。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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