森有礼(もりありのり)
生没 1847.7.13~89.2.12 明治前期の政治家。子爵。鹿児島藩士出身。1865年(慶応元)藩命でイギリスに留学,ついでアメリカに渡る。68年帰国。明治新政府に入り,急進的な改革意見を提出したが,保守派の反発で辞任。のち駐米公使・駐清公使・外務大輔・駐英公使などを歴任。その間,明六社の設立,「明六雑誌」の創刊に尽力し,初代社長として思想啓蒙活動にあたる。参事院議官・文部省御用掛をへて,85年(明治18)第1次伊藤内閣の文相。翌年,一連の学校令の制定を進め,知育中心の近代的学校教育制度の確立に努力。欧化主義者とみなされ,伊勢神宮参拝に際し不敬の行動があったとして保守派・国粋派の非難を浴び,憲法発布の日,神道家西野文太郎に襲撃され,翌日死去。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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