江戸時代,1村ごとの生産性を米の生産高である石高で表したもの。太閤検地以来の諸検地を通して決定された村の高であり,年貢や諸役の賦課基準とされた。村高は元禄期(1688~1704)頃までの検地によってほぼ確定され,以後はほとんど変更されなかったため,後期になると現実との乖離(かいり)がめだつようになった。村の規模を問題とする場合は,面積ではなく村高が基準とされるのが通例である。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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