人足寄場(にんそくよせば)
寛政の改革で松平定信が主導して江戸石川島に設置した無宿の収容施設。1790年(寛政2)の設立時には具体的立案にあたった火付盗賊改の長谷川平蔵が管轄し,加役方人足寄場といった。92年に寄場奉行がおかれ,その支配下となった。無罪無宿のうち引受人がなく人返しできない者を収容し,多様な手業に従事させた。引受人がでてきたり,手業を身につけ溜銭(労働による貯蓄)が一定額に達し定着可能と判断された場合に出所させる仕法であった。教化のため心学の道話も行った。収容者は無罪無宿というが,実際は入墨・敲(たたき)などの仕置ずみの者が大半で,収容者数は文政期頃までの百数十人から,天保期には500~600人へと激増した。これは1820年(文政3)からはじまった追放刑者の収容のためよりも,天保期の無宿野非人の激増と全無宿を召し捕るという方針の結果で,幕府の無宿対策=人返し政策を補完するものであった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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