大友宗麟(おおともそうりん)
生没 1530.1.3/5.4~87.5.23 戦国期の豊後国の武将。大友義鑑(よしあき)の長子。幼名塩法師丸,のち五郎。諱は義鎮(よししげ)。左衛門督。円斎・三非斎。1550年(天文19)宗麟廃嫡を企てた父義鑑が重臣に殺害された大友二階崩(にかいくずれ)の変後,家督を継ぐ。周防大内家家督を継いだ弟の義長が57年(弘治3)毛利氏に討たれると,同氏に内応した豊前・筑前両国の領主らを制した。59年(永禄2)豊前・筑前・筑後各国守護職をえ,豊後・肥後・肥前と合わせて6カ国守護。将軍足利義輝から九州探題に任じられる。70年(元亀元)毛利氏と和睦。毛利軍の豊筑撤兵で大友氏は全盛期に入った。76年(天正4)には家督を長子義統(よしむね)に譲るが,実権は保持。78年に洗礼をうけ,ドン・フランシスコと名のる。同年の耳川合戦(現,宮崎県木城町)で島津氏に大敗し,以後,離反者があいつぎ,急速に衰勢にむかった。86年の島津氏の侵攻で分国は崩壊,本拠豊後府内まで攻めこまれたが,87年豊臣秀吉の九州進攻に救われ,子義統に豊後一国が安堵された。同年病死。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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