応神天皇(おうじんてんのう)
記紀系譜上の第15代天皇。胎中天皇・誉田(ほんだ)天皇・品陀和気(ほんだわけ)命・誉田別命・大鞆和気(おおともわけ)命とも称する。父仲哀天皇の没後,母の神功(じんぐう)皇后が朝鮮への軍事行動を行い,帰国後九州で応神をうんだとされる。その出生状況には説話的要素が強く,それ以前の皇統とは隔絶した新王朝の創始者としての性格が濃厚である。名前に美称が含まれないことなどから,5世紀に実在した大王とする説もある。軽島豊明(かるのしまのとよあきら)宮(現,奈良県橿原市大軽町付近)のほか,難波に大隅(おおすみ)宮(現,大阪市東淀川区大桐付近)を営んだとされ,陵墓が恵我藻伏岡(えがのもふしのおか)陵(現,大阪府羽曳野市誉田(こんだ)の誉田御廟山古墳に比定)とされることなどから,応神に始まる王朝を河内王朝とよぶ説もある。百済(くだら)の王朝と密接な関係を築いたと伝えられ,また後代の有力な渡来系氏族の祖とされる阿知使主(あちのおみ)・弓月君(ゆづきのきみ)・王仁(わに)などが渡来した時代ともされる。「宋書」倭国伝にみえる倭王讃(さん)を応神に比定する説もある。皇后仲姫(なかつひめ)との間に仁徳天皇らをもうけたとされる。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
この記事が気に入ったらいいね!しよう