侍所(さむらいどころ)
�@本来は,平安時代の摂関家などの邸宅での侍の詰所で,やがて家人である侍の組織の称となった。内裏の殿上に相当する場。摂関家では,11世紀に政所と並ぶ主要家政機関となり,主従関係の維持,従者の統制の機能をもった。寝殿の外側の廊(侍廊)におかれ,職員には,別当・侍・所司などがあった。親王家や大臣などの家にも設けられた。�A鎌倉・室町両幕府において家人の統制および検察・断罪(検断)を職務とする機関。鎌倉幕府では1180年(治承4)和田義盛を長官である別当に任じたことに始まる。次官である所司(しょし)の初代は梶原景時。政所・問注所とともに幕府の3大重要機関だったが,御家人を統率するこの機関が3機関中最も早く創設された。1213年(建保元)和田義盛を滅ぼした執権北条義時はみずから侍所別当を兼ね,以後執権の兼職となった。所司にも北条氏得宗(とくそう)家の被官が任じられ,鎌倉中期以降は得宗被官の最上位にある得宗家家令長崎氏がほぼ世襲した。侍所は守護を通じて全国の御家人を統率するとともに,鎌倉府内の検断も担った。所司の職権は絶大で,鎌倉末期に長崎氏は主家得宗をもしのぐ権勢をふるった。室町幕府では別当はおかれず,長官は所司または頭人(とうにん)とよばれ,初期には所司が山城国守護を兼ねて洛中の下地遵行(したじじゅんぎょう)権を行使。のちに洛中の検断がおもな任務となった。所司には細川・畠山・今川・一色など足利一門,山名・京極・六角・土岐など有力守護,三浦・高・佐竹など将軍近臣が任じられたが,応永期以降,山名・赤松・一色・京極の4家交替となり,四職(ししき)といわれた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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