薩英戦争(さつえいせんそう)
1863年(文久3)イギリス艦隊の鹿児島砲撃事件。生麦事件の賠償交渉の不調によりおきた。同年6月27日クーパー提督率いるイギリス艦隊7隻が代理公使ニールらを乗せ鹿児島に遠征し,鹿児島藩に犯人の逮捕処罰・2万5000ポンドの賠償金を要求したが,交渉は不調に終わる。イギリス側は強硬手段を行使し,7月2日・3日の交戦で鹿児島城下を焼き全砲台を大破した。イギリス側も旗艦艦長や副長が即死,60余人が死傷の損害を被った。鹿児島藩は9月28日から3回にわたり,横浜のイギリス公使館でニールと講和談判を行い,10月5日和議が成立。以後薩英関係は親密度を増し,鹿児島藩は軍備などの近代化をすすめた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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