承久の乱(じょうきゅうのらん)
1221年(承久3)5・6月,後鳥羽上皇とその近臣が,鎌倉幕府打倒に挙兵した事件。院の直轄軍である西面の武士を新たに設置するなど朝廷の政治力の回復をはかっていた上皇は,3代将軍源実朝の後継として皇族下向を求める幕府の要請を保留,逆に摂津国長江・倉橋両荘の地頭職改補を要求したが,幕府の拒絶にあって交渉は決裂した。幕府との対立を深めた上皇は,5月14日,14カ国の軍兵を召集,翌15日には北条義時追討の宣旨(せんじ)・院宣を発し,京都守護伊賀光季を攻撃,親幕府派の西園寺公経(きんつね)を幽閉。5月19日,報をうけた幕府は,北条政子の説得と大江広元の建策により,ただちに京都攻撃の軍を発し,6月5・6日,朝廷側主力軍を破り,15日には京都を占領。上皇はすぐに義時追討の宣旨・院宣をとりけし,乱の首謀者は近臣であるとした。幕府は,後鳥羽上皇,その子土御門(つちみかど)・順徳両上皇,六条・冷泉(れいぜい)両宮を配流,後鳥羽上皇の兄行助(ぎょうじょ)入道親王を後高倉院とし,その子茂仁(後堀河天皇)を皇位につけ,後高倉院の院政とするなど朝廷改革を行う一方,乱の加担者を処罰し,所領を没収,恩賞として東国の御家人に与え,西国支配を強化した。また幕府軍の総指揮官として上洛した北条泰時・同時房は,六波羅探題として京都にとどまり,戦後処理と朝廷の監視,京周辺の警固などにあたった。この乱によって幕府の朝廷に対する優位が確立した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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