自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)
1874年(明治7)の民撰議院設立建白書から十数年間,国会の開設など近代的国民国家の構築をめざして進められた政治運動。かつてこれを明治専制政府打倒をめざすブルジョア民主主義運動とみなす説が有力であったが,現在では立憲政治の実現という政府と共通の目標に向かって,政府と競合しつつ,これを民権派の主導権のもとで推進しようとした運動という理解も有力である。国約憲法の制定,国会の開設,地方自治の確立,地租軽減,条約改正などを要求した。はじめは運動の担い手は,おおむね政府に不満をもつ士族層で目標も明確ではなかったが,やがて開明派士族層,弁護士・ジャーナリスト・教員など都市知識人層,地方豪農・豪商層が主体になっていく。80年春には諸結社・有志が合流して国会期成同盟が結成され,目標の重点を国会開設におき,組織的かつ全国的な運動を進めようとした。同年秋の第2回大会では,各地で憲法案の起草を行うことなどを決めるとともに,万一に備え遭変者扶助法を定めた。こうした民権派の動きに対し,75年の立憲政体樹立の詔,79年の府県会の開設など,みずからの主導権で立憲政治実現の準備を進めてきた政府は,民権派のとりこみと同時に80年集会条例を制定して圧迫を強化。折しも生じた開拓使官有物払下げ問題への批判とあいまって,運動はいっそう燃え広がったため,81年10月12日政府は,払下げに反対し国会の早期開設とイギリス流政党政治の実現を説く参議大隈重信を罷免する一方で,明治23年の国会開設を約束する勅諭をだした(明治14年の政変)。この間,国会期成同盟に結集した土佐派を中心とする人々は同年10月末,日本最初の全国政党である自由党を,都市知識人層は翌年大隈を総理に立憲改進党を結党した。その後,政府のきびしい取締りや巧妙な政党離間策,デフレ政策による運動支持層の窮乏化による運動資金の枯渇や階層分化などにより,民権派内部が分裂・抗争し,さらに福島・喜多方事件,群馬事件,加波山事件,秩父事件などの激化事件が続発。84年10月自由党は解党し,改進党は同年12月大隈ら首脳部が脱党し,組織的運動は衰退した。憲法発布を前に民権派は,地租軽減,言論集会の自由,外交の刷新を求める三大事件建白運動や大同団結運動を展開。その結果,90年帝国議会開設にあたって,民権派の流れをくむ民党が衆議院の多数を占めた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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