斯波義廉(しばよしかど)
生没 1446/47~? 戦国期の武将。渋川義鏡(よしかね)の子。治部大輔・左兵衛佐。夭折した斯波義健(よしたけ)の後嗣義敏(よしとし)が重臣甲斐常治らと争って出奔したため,朝倉孝景らに擁され,1461年(寛正2)将軍足利義政の命で家督を継承。越前・尾張・遠江3国守護となる。66年(文正元)義敏が家督を認められたが,翌年1月山名宗全を頼って再び家督に復帰し,管領となる。応仁・文明の乱では西軍に属して管領を罷免されたが,西軍内では足利義視(よしみ)のもとで管領を勤めた。71年(文明3)孝景が東軍に降ると最大の支持基盤を失い,75年には織田敏広を頼って尾張へ下る。以後の動静は不明。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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