祇管打坐とも。「只管」とは,ひたすらにの意。坐禅になんの意義も条件も求めず,公案なども使わず,ただひたすら坐禅を実践すること。全身心をあげて坐りぬくこと以外に仏法の体得はないという道元禅の特質を端的に表した語。道元は黙照禅の伝統をうけ,天童如浄の「参禅は坐禅なり」の意をうけて只管打坐を重視した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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