田荘(たどころ)
大和政権の屯倉(みやけ)に対して,豪族の農業経営の拠点。646年(大化2)の改新の詔によって,名代(なしろ)・子代(こしろ)や屯倉とともに諸豪族の部曲(かきべ)・田荘が廃止されている。「日本書紀」崇峻即位前紀には,物部守屋(もののべのもりや)が渋河家・難波宅などいくつかの拠点をもっていたことが知られ,その討滅後に守屋の奴婢の半分と宅をわけて四天王寺の奴婢・田荘としたとあり,田荘の存在と奴婢など配下の民の使役による経営がわかる。改新の詔以降にも,692年(持統6)飛鳥皇女の田荘への行幸の例や,律令制下でも「万葉集」に大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)が滞在したとみえる跡見田庄(とみのたどころ)・竹田庄(たけだのたどころ)などの例があり,皇族の宮や諸豪族の私有地の経営の拠点として存続したか。農業経営の拠点であり,田地と屋・倉からなっていたらしい。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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