伊達騒動(だてそうどう)
寛文事件とも。江戸前期,陸奥国仙台藩伊達家の御家騒動。1660年(万治3)幕府は藩主伊達綱宗に不行跡を理由に隠居を命じ,2歳の亀千代(綱村)が家督を相続,後見として一門の伊達兵部宗勝(むねかつ)と田村右京宗良(むねよし)が仙台62万石からそれぞれ3万石を分封された。その後,兵部は奉行原田甲斐宗輔らと藩政を主導し,藩権力の強化・集中をはかり,反対派の伊達安芸宗重(むねしげ)や譜代門閥層と対立。所領争論を機に71年(寛文11)安芸は兵部らの非違を幕府に提訴した。大老酒井忠清邸での対決で原田甲斐は伊達安芸を斬殺,みずからもその場で殺され,敗訴となった伊達兵部は改易,綱村は領知62万石を安堵された。三大御家騒動の一つとして脚色され,1713年(正徳3)江戸市村座の「泰平女今川」に始まり,85年(天明5)江戸結城座での人形浄瑠璃「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」が定本となる。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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