橘奈良麻呂の変(たちばなのならまろのへん)
奈良中期のクーデタ未遂事件。745年(天平17)頃からひそかに皇嗣問題の主導権掌握を画策していた橘奈良麻呂は,757年(天平宝字元)1月に父の諸兄(もろえ)が没し,4月に素行不良で廃された道祖(ふなど)王にかわって藤原仲麻呂庇護下の大炊(おおい)王(淳仁(じゅんにん)天皇)が立太子すると,大伴・佐伯・多治比(たじひ)氏らと仲麻呂打倒をはかる。6月,光明皇太后は不穏な動静を憂慮して軽挙を戒めるが,事態は急を告げた。逮捕された小野東人(あずまひと)らの自白によると,7月2日にまず田村第を急襲して仲麻呂を殺害し,大炊王を退け,ついで皇太后宮の鈴印を奪い,孝謙天皇を廃して黄文(きぶみ)王ら4王のなかから天皇をたてる計画であった。この事件に関係して,橘・大伴・佐伯・多治比氏などの多くの人々が罪におち,仲麻呂は中央政界から反対勢力を一掃し,名実ともに専制体制を確立した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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