寺田屋騒動(てらだやそうどう)
1862年(文久2)4月鹿児島藩尊攘派が京都伏見の寺田屋で鎮圧された事件。同年3月鹿児島藩主島津忠義の父久光は公武合体実現のため藩兵1000を率いて上洛。尊攘派も攘夷討幕の好機とみて京に集結した。久光は自重を求めたが,有馬新七を中心とする同藩尊攘派30余人は従わず,挙兵の機会をうかがい,船宿寺田屋に集結。久光は4月23日激派を鎮圧するため鎮使8名を寺田屋に派遣,有馬らの行動を止めようとしたがはたせず,同藩士どうしの斬り合いとなった。激派は数人が討死あるいは刑死し,同藩の尊攘運動は消滅した。この事件は尊攘派の憤激をかい,以降,尊攘運動は公武合体運動と激しく対立する。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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