徳川家定(とくがわいえさだ)
生没 1824.4.8~58.7.6 江戸幕府13代将軍(在職1853.11.23~58.8.8)。父は12代家慶(いえよし)。母は側室本寿院。幼名政之助。はじめ家祥(いえさき)。法号温恭院。1825年(文政8)世子。41年(天保12)西丸入り。鷹司政通の養女有姫,ついで一条実良の女寿明(すめ)姫を妻に迎えたが,ともに早世。53年(嘉永6)将軍職を継いで家定と改めた。同年6月3日にペリーが浦賀に来航し,世情が動揺した時期であった。老中阿部正弘は,雄藩大名との協調路線から鹿児島藩主島津斉彬(なりあきら)の養女篤姫(あつひめ)を近衛忠熙(ただひろ)の養女として家定の御台所に迎えた。家定は病弱で,世子の誕生が期待できなかったため,将軍継嗣が重大な政治問題となり,58年(安政5)大老井伊直弼(なおすけ)が和歌山藩主慶福(よしとみ)(家茂)を継嗣と決定,直後に没した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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